わが大学の先生と語る
「外に出る、内にスペースを開く」松嶋 健(広島大学)

外に出る、内にスペースを開く インタビュー

 松嶋先生の推薦図書


P r o f i l e
 

松嶋 健 (まつしま・たけし)
1969 年生まれ、大阪府出身。
広島大学大学院社会科学研究科 准教授。
2009 年、京都大学大学院人間・環境学研究科 博士後期課程 研究指導認定退学(博士<人間・環境学>)。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科、京都大学人文科学研究所、成安造形大学附属芸術文化研究所、国立民族学博物館等の研究員を経て、2015 年より現職。専門は文化人類学、医療人類学。

■著書・論文
主な著書に、『プシコ ナウティカ─イタリア精神医療の人類学』(世界思想社、2014 年)、『トラウマを生きる─トラウマ研究1』(2018 年)『トラウマを共有する─トラウマ研究2』(2019年)(以上、ともに共編著、京都大学学術出版会)、『文化人類学の思考法』(共著、世界思想社、 2019 年)、『医療人類学を学ぶための 60 冊─医療を通して「当たり前」を問い直そう』(共著、明石書店、2018 年)、『世界の手触り─フィールド哲学入門』(2015 年)『動物と出会うI─出会いの相互行為』(2015 年)『自然学─来るべき美学のために』(2014 年)(以上、ともに共著、ナカニシヤ出版)、『身体化の人類学─認知・記憶・言語・他者』(共著、世界思想社、2013 年)。
  • 杉田 佳凜
    (大学院総合科学研究科 M2)

1.「外に出る」という構え

杉田
 最初に先生の研究の内容と、関心がどこにあるのか紹介していただけますか。

松嶋
 杉田さんが学部で受けた授業は「医療人類学」ですが、私は医療人類学をやっているというより、問いの解像度を上げる方法の一つとして医療人類学を使っているという感じです。医療人類学もその基本は文化人類学ですが、私の考えでは、人類学自体「ディシプリン」というよりは「構え」です。「いかに外に出るか」「いかに別の仕方で世界を見たり考えたりできるのか」についてのヒントが詰まった貯蔵庫のようなイメージです。
 さらにもう一つ人類学には、現在の私たちの「現実」を形作る基盤となっている近代科学自体を問い直す、いわばメタサイエンスの側面もあります。医療人類学もその一つで、医療が対象とされるのは、近代科学の根幹に医学があり、医療が現代社会で大きな位置を占めていて避けて通れないからです。

杉田
 医療は避けがたいように見えるけれど、その外もあるのではないか。その参照先として人類学があるということでしょうか?

松嶋
 例えば、病院で生まれて病院で死ぬというのは、今の日本では当たり前のことですが、その「当たり前」もここ数十年でそうなったわけですね。ということは、少し遡るだけでも別のやり方をしていただろうし、人類の歴史から考えるともっと違うやり方もあって、しかもそこに何か通底する特徴も見出せる。未開だとか単に技術がなかったということではなく、そこには人類の生き物としての意味があるかもしれない。それで、文字や国家を持たない民族を研究したり、自分たちの制度をその由来にまで遡ったりすることを通して、「これしかない」ように見える現実に対してスペースを開いていく。

杉田
 現代日本だけ見ていると隙間がないように見えるけれど、世界全体へ視野を拡げて隙間を探すということでしょうか?

松嶋
 世界全体や人類史にまで視野を拡げるとともに、自分の奥にある生き物としての身体感覚を大事にする。目の前の現実の隙間のなさや生きづらさに対する違和感が出発点で、それをすぐ権利要求に結びつけるのではなく、「そもそもなんでだろう」と問いにつなげていくことが大切です。その違和感は個人的なものではなく大きな問題につながっていて、他の人とも分有しうる人類の先端部分の問いだということをきちんと表現し明らかにしていく過程自体が「人類学する」ことだと言えるかもしれません。
 

2.「外」への感覚

松嶋
 今考えると、「ここ以外のどこかに出たい」という感覚が最初に形をとったのは、小学校3年生くらいのときですね。家にあった俳句のカルタから芭蕉にはまったんです。俳諧って何てクールなんだろうと。それで芭蕉の旅の跡を巡ったり、近江にある彼のお墓に参ったりしていました。「旅に生き旅に死す」という人生に憧れていたんです。変な小学生でしょう。

杉田
 変というより、小学生が辿るには範囲が広すぎるような……。

松嶋
 東北まではなかなか行けなかったけれど、当時私が住んでいた関西にも足跡が方々にあったので、親に頼んで連れていってもらいました。
 もう一つ、これも小学生のとき考古学クラブを作りました。部員は私一人でしたけど。大阪の郊外の住宅地でも、掘れば弥生時代の土器の破片とかが出てくるんです。今学校や家があるのと同じ場所で昔全然違う暮らしをしていたんだと想像してぼーっとなっていました。それも「今ここ」にいながらにして外へという傾向の萌しだった気がします。

杉田
 「今ここ」ではないというと、自分は小説のようなフィクションを想像します。

松嶋
 フィクションに対する興味と狂気や精神病への関心はつながっています。どちらも、空間的に移動して外に出る代わりに、ヴァーチャルな次元で外に出ようとする欲望の表れでしょう。人間が言葉を持っていて「精神」の中で今ここにないものを想像しうるというのは大きな可能性ですが、そもそも人間は狂っているとも言えます。いわば「人間である」こと自体に狂気が含まれているのであって、その帰結としての現在の地球環境問題を、精神疾患などとは別の問題と考えるのではなく、精神と社会と自然のエコロジーとしてひと連なりに捉えるために人類学は有効な道具になりえます。
 ところで最近よく感じるのは、「障害者」や「貧困」、「地域起こし」などテーマは様々なのですが、国の政策的視点からの問題をそのまま自分の問題とする学生が増えたということです。人類学者のジェームズ・スコットに『国家のように見る』という著作がありますが、知らず識らず「国家のように」物事を見ていることが多いのではないでしょうか。
 そうすると、例えば「精神障害者」といったカテゴリーは疑問のない前提となり、そこから問題が立てられることになる。でも人類学の場合、カテゴリーを前提とするのではなく、具体的な「私とあなた」という関係性から考えます。カテゴリーも無論使いますが、カテゴリーの手前あるいは向こう側から見ようとすることで既存のカテゴリー自体をも問い直すことができるのです。
 世界の片隅の「私とあなた」という局所的な関係性と、人類の歴史や進化のようなタイムスパンでの見方の両方を持つことで、近代に誕生した国民国家を前提とする視点を相対化し、もっと根源的に問いを立てようとするわけです。こうした構えが、ここにある「現実」も一つのヴァーチャル・リアリティであり、様々な潜在性のうちの一つの現実態だとする見方を可能にするのです。

杉田
 「今ここ」の外は、時空間としての外でもあり、制度の外でもあるんですね。

3.現行の制度の内部に別の仕組みを

杉田
 制度というと、国民皆保険など医療とは切っても切れないのではと思います。

松嶋
 人類のどんな社会にも制度はあるし、人間が生きていくために制度は必要です。問題はそれが誰のため、何のためのものかということです。国民皆保険は一見いい制度ですが、そもそも国家がなぜ国民の健康を配慮するのかを考えなくてはなりません。生産性に結びつくものとして健康を義務化する健康増進法のようなものもあれば、感染症や精神病の患者が社会防衛的な観点から隔離されることもあります。
 私がフィールドワークをしたイタリアでは、精神病院を全廃し「社会的危険性」という概念と精神疾患との結びつきを断ち切ったわけですが、そうした実践から見えてきたのは、国民国家を前提に精神障害者を社会的に包摂しようという話だけではなく、国家の統治とは異なる論理に基づく関係性をいかに作っていくかということだったんです。

杉田
 カテゴリーを使った国家の統治システムの外側に関係性を作っていく。

松嶋
 たとえ国家の内であっても、統治の論理の外にある仕組みということです。人類史的に見ると、国家を生み出すような兆候が出てきたらそれを極力抑え、別のやり方でやっていこうとする仕組みや知恵があります。そういう人たちは、あえて文字を使わず、国家を作らなかったので、近代の西洋人は未開とか野蛮と見なしました。しかし、それは国家を知らなかったのではなく、国家的なものが生まれるのを意図的に回避し、別の生き方や社会の仕組みを作ってきた結果だと考えられます。近年、世界中で様々な社会実験が行われていますが、そこに見られるやり方にも古くからある人類の作法と共通する点を見出すことができます。

杉田
 具体的にどんなケースが挙げられるでしょうか。

松嶋
 2008 年の金融危機の後、南欧で多くの人が気づいたのは、一つのシステムに依存することの危うさです。グローバリゼーションは世界中の人やモノをつなぐけれど、それは多くの人が単一のシステムに依存することでもある。リスク管理が行われてはいても、単一システムが駄目になると、予想以上に多くのものが機能しなくなってしまう。しかもそうしたシステムは一部の人を利するようにできているので、いざとなると自分たちは見捨てられるのだと痛感した人らが、普段から別のかたちのネットワークをローカルなレベルで作っておくことの重要性に気づいたのです。日本でも特に大震災後の経験から、国をあてにしない別の回路を作ろうとする試みが増えてきているように思います。
 精神病院だけでなく貨幣や国家など「これなしではやっていけない」と思っているものが色々あるけれど、実はなくても意外と大丈夫かもしれない。でも本当に大丈夫であるためには、それなしでやっていける仕組みを現行の制度の内側に普段から作っておかないといけない。

杉田
 自分の手が届く範囲に戻すということなのでしょうか。仕組みの規模を小さくして、構成員それぞれが主体性と責任を持って参加できるようにしようとしているのかな。

松嶋
 『プシコ ナウティカ』にも書きましたが、物事がスムーズに機能しているときには主体性が入る余地がない。うまくいかなくなって初めて自分たちのものとして作り変えられるというイタリアの「こわれものの哲学」は、生き物として大切な感覚だと思います。

杉田
 
最後に大学生に一言お願いします。

松嶋
 自分の問いを見つけて、他人と共有できるものにしていくことが大切だと思います。そのためには自分の違和感を大事にしながらも、色んな人と話をし、また様々な領域の本を通して先人と対話することは欠かせません。あとはやはり旅に出ることかな。
 そうした経験から出てくる問い、それをどうすれば他の人と分有できるのか。試行錯誤しながらのこうしたプロセスを体験しておくと、その後の人生でも、スペースがなさそうに見えるところにスペースを開いていくことに対する信頼感が生まれるんじゃないかと思います。

杉田
 世界と多くの接点を持つことによってより問いを立てやすくなるのかなと思います。ありがとうございました。
(収録日:2019 年4月27 日)

対談を終えて

現実も一種のヴァーチャルであり、固定されたものではないという言葉が心強かったです。たとえば国家もお金も一つのシステムで世界そのものではないし、だから「外に出る」ことができるのだと考えると、なんだか気が楽になりました。けれど一人で外に出るだけではやっていけないこともあるから、そのときは主体性が感じられるような別の仕組みを作る。個とシステムの関係はとても難しいけれど、無視できないし楽しい問題だなと思います。自分が暮らす場として考えるうえでも、問いを立てるうえでも。個人授業のような贅沢な時間をいただき、ありがとうございました。
(杉田佳凜)

 

コラム

「精神病者」とは誰か?
医療人類学とイタリア
ナショナルをすっ飛ばしたグローカルなつながり

「精神病者」とは誰か?

松嶋
 1960 年代からのイタリアの精神医療改革運動では、「そもそも精神病者とは誰なのか」が問われました。最初から「精神病者」が存在したわけではありません。それが存在するようになるのは近代の出来事であって、それまでの「狂人」とは違います。それ以前のヨーロッパは 10 世紀位まで深い森が広がっており、森に入ると聖俗の権力の手は届かなかった。逃亡した農奴や匪賊や狂人が森で生きることは可能でした。そうした森林の大部分が農耕地になった後も、森のアジールとしての機能は 18 世紀くらいまでは存続したようです。
 それと並行して、都市ができ人口が集中してくると、都市の秩序とキリスト教的秩序が重なり合いながら、そこから逸脱する者を囲い込むようになります。今なら精神障害(mental disorder)と呼ばれるものが当時は社会的な秩序(social order)と神の秩序(Order of God)からの逸脱として視野に捉えられるようになります。教皇のいたローマに狂人を収容する施設ができるのは 16 世紀半ばで、ちょうどルターらが始めた宗教改革の真っ只中の出来事でした。また、森や山と平地の境界地帯で魔女狩りが始まったのも 15 世紀末のことです。つまり「狂人」は、宗教的・社会的・政治的規範との関係で存在したと言えます。
 それが医学化されていくのが 18 世紀からです。啓蒙主義の後にフランス革命が起こり、臨床医学が成立していくなかで、狂気はもはや宗教的規範との関係において存在するのではなく、神経学的な疾患とされ、患者は新たに作られた精神病院に収容されていきます。同時にそれは、労働という新たな社会規範との関係で道徳的な非難の対象にもなりました。さらに精神病院は、国民国家を立ち上げていく際の社会統制の装置になっていきます。これは日本の場合も似ていて、明治政府が最初にしたのは、住所が定まらない瘋癲や浮浪民の路上徘徊を禁止し、彼らを施設に収容することでした。こうした施設が後に精神病院となり、被収容者は「精神病者」として精神病学の臨床講義に供されるようになっていく。日本の精神医学が成立していく過程は、国家が非定住者を捕捉し、同定し、登録していく動きと軌を一にしていたのです。こうした背景があるわけですから、精神疾患は純粋に医学的なものというより、社会の規範や国家の統治との関係で考え直される必要があるのです。


 

医療人類学とイタリア

松嶋
 私が医療人類学を学んだのはイタリアで暮らしていた時です。イタリア人類学の父と呼ばれるのはエルネスト・デ・マルティーノで、もともと歴史家だったのですが、文献資料にもとづく歴史に飽き足らず民衆史、民俗学、人類学を横断する領域を切り開いた人です。彼が調査したのは南イタリアの呪術や憑依現象でしたが、それはアントニオ・グラムシがファシスト政権下に獄中で書いたサバルタン(下層社会集団)についてのノートを読んだからだと言われています。デ・マルティーノは国家による統治や権力関係を明確に意識しながら「小さき民」の世界に向かったという点で、日本の民俗学者の宮本常一と通ずる点が多々あると思います。
 イタリアは南北に長く、ヨーロッパでありながら地中海世界でもあり、農牧民、都市民、山岳民、海洋民が入り混じる複雑な社会を生み出してきました。その内部の多様性に目を向けたイタリアの医療人類学は、デ・マルティーノの影響を受けた弟子たちによって展開されたため、病気や治療の観念の文化的多様性にとどまらず、医療を通した身体と精神の統治という視座を当初からずっと持ち続けてきたわけです。


 

ナショナルをすっ飛ばしたグローカルなつながり

松嶋
 『ライオンは今夜死ぬ』を撮った諏訪敦彦監督と去年話をしたんですが、こんなことをおっしゃっていました。「日本の映画市場だけを考えて映画を撮るんだったら、どうしても、人気のある俳優を使うとか、多くの人が面白いと思うようなストーリーにしないと映画を作り続けられない。でも自分の場合、日本では私の映画を観てくれる人は少ないかもしれないけれど、そういう人が世界の色んな国に少しずついてくれるおかげで、映画を作り続けることができているんです」。
 グローバリゼーションと言われる現象には、実はこういう側面があります。ローカルな範囲でやっているマイナーなことが、地球の別の場所でのマイナーな試みや人と直接つながることで、ナショナルな次元をすっ飛ばしてやっていけるという可能性です。

杉田
 点在しているものどうしがつながって「少数派だけど孤立しない」状態になる。

松嶋
 ナショナルにそしてグローバルにメジャーになるというのを目指すことなく、マイナーなまま、しかも閉じずに生きていくという道です。


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