わが大学の先生と語る
「コミュニケーションの中の日本語」蒲谷 宏(早稲田大学)

人を感じ、人と寄り添うインタビュー

 蒲谷先生の推薦図書


P r o f i l e

蒲谷 宏 (かばや・ひろし)
1957年生まれ、神奈川県出身。
早稲田大学大学院日本語教育研究科教授。
1986年早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了、博士《文学》。早稲田大学日本語研究教育センター教授(1995-2001)を経て、2001年より現職。
専門は、日本語学・日本語教育学、待遇コミュニケーション(教育)の研究。

■主な著書
『敬語表現』『待遇コミュニケーション論』『敬語マスター』『敬語だけじゃない敬語表現』(以上、大修館書店)、『大人の敬語コミュニケーション』(ちくま新書)。
  • 王 昌
    (大学院日本語教育研究科2年)
  • 田中美里
    (文化構想学部3年)

 

1.「場面」を意識する

田中
 先生は敬語のどこにおもしろさを感じられますか。

蒲谷
 そうですね、敬語自体がおもしろいというよりも、なぜ同じ内容なのにわざわざ敬語を使って違う言い方にするのか、というところにおもしろさがあると思います。ですから、関心はコミュニケーションのほうにありますね。

田中
 確かに言われてみれば、敬語というのは表現の仕方が異なるだけですよね。


 敬語を日本語の日常生活のコミュニケーションのなかではどのように位置づけられているのですか。

蒲谷
 日常生活のなかの敬語としても、まず、人はなぜ敬語を使うのかというところがありますね。何のために敬語を使うのか、非常に大まかに言えば、上下関係があるから敬語を使うんだという考え方と、親疎関係─親しいか親しくないかで使い分けるんだという考え方があります。なぜ同じ内容を異なる表現形式で伝えようとするのか、それには理由があるわけなんですね。その理由が「場面」という捉え方です。人間関係や状況をどう捉えるか。それによって表現の仕方を変えたり工夫したりするというところに敬語も位置づけられています。

田中
 先生は文化庁の敬語の指針の作成に携わられたとうかがっているのですが、そこで意識されたことは何ですか。

蒲谷
 そうですね、敬語の指針では、やはり敬語そのものに重点が置かれていたんですね。特に話題になったのは、敬語の従来の3分類(尊敬語・謙譲語・丁寧語)の謙譲語を謙譲語Ⅰ(「伺う・申し上げる」型)と謙譲語Ⅱ(丁重語)(「参る・申す」型)に分ける、というところです。良くも悪くもその点が注目されて、3分類から5分類(尊敬語・謙譲語Ⅰ・謙譲語Ⅱ(丁重語)・丁寧語・美化語)へ、ということがものすごく取り上げられたのですが、本当の気持ちとしては、敬語の指針の第1章に書かれている、敬語についての考え方、相互尊重に基づく自己表現が大事なんだということですね。5分類の考え方自体は広がってきたのかなと思いますが、そういう議論は、別にどちらでもかまわないと私は思っています。3分類か5分類かが重要なのではなくて、なぜ5分類にしたのか、という考え方のところ、そこが伝わればいいのだと思います。

 

 

2.一般性と個別性


 実際の場面における敬語の使用に関してですが、衆議院選挙の街頭演説における「させていただく」の連発がニュースで取り上げられました。先生はそれをどのように捉えていらっしゃいますか。

蒲谷
 そうですね、「させていただく」は本当によく話題になるのですが、選挙演説で政治家たちが「お訴えさせていただきます」などと言っていますよね。それは聞いていて、あれ?という感じはありますが、ただ、「させていただく」というのは、自分が行うことが人の力を得ていて、それが自分にとってはありがたいということを伝えるための、ある種の謙譲表現になるので、必要かといわれれば必要だと思うんですね。例えば「私が読み上げます」というときに「私がお読み上げします」とは言えないので、どうしていいか分からない。そのときに「読み上げさせていただきます」という表現が出てくるわけです。敬語の形式上足りないところを補う謙譲表現を作るために「させていただく」が入るので、そういう意味では仕方がないところもあります。だからそれで気持ちが適切に表せるなら、という場合もありますね。

田中
 では、それに対する違和感はどこから生まれるのでしょうか。

蒲谷
 それは、全然そういう条件にあてはまらないのに「私どものほうで努力させていただきました」というような表現をする場合ですね。気持ちはわかりますが、形としては別の言い方の「努力いたしました」でいいんじゃないかと感じることはありますね。良いか悪いかというよりも、それがどういう人間関係なのかとか、どういう言葉を選んで使っているのかとか、そういうことを考えるといいのかなと思います。最近、新聞で「させていただく」乱発は媚び、というような意見が出て、それに対する反論も出て、みんなやはり言葉に関心があるんだなと思いますね。そういう論争自体は悪いことではないと思いますけどね。


 受け手ごとに感覚は違いますね。

蒲谷
 そうですね。世代差もあるだろうし、結局は一人ひとりの考え方がやはり違うので、「させていただく」でもいいじゃないかという人もいるし、「させていただく」は嫌だとか、気持ち悪いとか言う人もいる。それは仕方がないかなと思いますね。丁寧さについても、ある人にとってはその丁寧さが自然だけれど、ある人にとってはそれは丁寧すぎるとか、あるいは足りないとか、ある人から見たら失礼だと言うけれど、まあ別にいいじゃないかとか。そこにはもちろん世代差も地域差もあるし、色々な違いはありますが、最後は一人ひとりみんな違うのかなと思いますね。

 

 

3.得意なかたちを決める


 日本人であろうが留学生であろうが敬語に対する何らかの苦手意識を持っている人は少なくないのではないかと思うのですが、それを払拭するためのアドバイスがあればお願いします。

蒲谷
 非常に大きな前提として、敬語にそんなにとらわれる必要はないのではないかと思います。教師が敬語は難しいと言い過ぎるから、学習者も難しいと思ってしまう。たしかに敬語の間違いというようなことで話題にすると、細かい問題点も色々あるので、その意味ではちょっと複雑だし難しいし、分かりにくい部分はあると思うのですが、それを乗り越えるのは、実はそんなに難しくないんですね。

田中
 敬語にそんなにこだわる必要はないんですね。

蒲谷
 そうです。しかし、そうは言っても難しいと感じる人にどうしたらいいかということですね。非常に大きなアドバイスとしては、敬語を敬語として考えるだけではなくて、コミュニケーション全体で考えればいいのではないかと思います。私がいま考えているのは、敬語の従来の分類にこだわらず、「高くする敬語」と「改まりの敬語」と「恩恵を表す敬語」のような捉え方をすることです。そのなかで、自分が使いやすい得意な敬語をまず決めて、高くする敬語だったら、例えば「おっしゃる」とか「いらっしゃる」だけは使うとか、「うかがう」ぐらいは使うとかということを決める。なんでもかんでも使おうとするのではなく、自分が使えそうなものを決めるということです。改まりの言い方だったら、「よろしくお願いします」ではなくて「よろしくお願いいたします」とメールに書くとか、その辺の工夫で一歩アップしますよね。恩恵の言葉なんかも色々な言い方があって、「ご説明いただけますか」とかは難しいけれども、「説明していただけますか」が使えれば次第に慣れてきます。初めは限られているかもしれませんが、一つぐらいは自分の得意なかたちを決めて、そこから使っていけばいいわけです。実際にはそんなにたくさんの敬語を使うわけではないので、いくつか個別の敬語をマスターすれば、少しずつ自信がついてくるのかなと思いますね。

 

 

4.同じものとして

田中
 そもそも蒲谷先生はどうして日本語教育の道に進もうと思われたのですか。

蒲谷
 最初は、国語教育から入ったんですね。本当に短い期間でしたが、高校で国語を教えていたこともありました。すぐ日本語教育の世界に入ってしまったのですが、その後も国語の教科書の編集に関わったりもしています。一般的には日本語教育というのは日本語を母語としない人のための教育なんですが、私の考える日本語教育では、日本語が母語かどうかはそんなに問題にしていないので、いわゆる国語教育も日本語教育も、広い意味で日本語教育ということなんですね。元々国語教育から入ってはいますが、大学院生の時には日本語教育関係の授業にも出て関心はあったので、そんなに違う分野に入ってきたという気持ちは私にはないんですね。元々広い意味での日本語の研究とか教育に関心があったということです。


 日本の社会の発展において日本語教育はこれからどのような役割を担っていくとお考えですか。

蒲谷
 すごく大きな問いかけですが、現在では、日本語教育も社会との関係を抜きには語れない時代に入ってきています。その点で言うと、まず、日本語で人と人とがコミュニケーションをするときにも社会が作られる、そんな発想をしています。それと同時に、外側を取り巻く社会もあるので、そこでは、日本語教育はただ日本語を教えていればいいんだという考え方では足りないんですね。日本語を学ぶ人たちの多様性もあるし、教える人の多様性もあるので、私としては「日本語=コミュニケーション」という考え方によって、単に言葉を教えるというよりは、やはり人と人とがコミュニケーションで社会を作っていく役割があるのではないかと思っています。その意味では、言葉を理解するということだけでなく、コミュニケーションの力をつけることが日本語教育の目的になるのかなと思いますね。だから、日本語教育が何に貢献できるのかについては、人と人とがより良い関係をどう作るのか、それがより良い社会を創ることにどうつながるのか、理想論のようにはなりますが、イメージとしてそういう目標がありますね。
 
(収録日:2017年10月11日)

 


対談を終えて

大学院のゼミと授業で普段あまりうかがえないような話題もあり、とても楽しい時間を過ごすことができました。インタビューを通して、社会の発展におけるコミュニケーションの役割を改めて認識し、様々な背景を持つ人と接する中で、自分の主体性を育てることの大切さを感じました。今後も一人ひとりの日本語話者の考え方を尊重し、柔軟な姿勢を保ちつつ、日本語教育に携わっていきたいと考えています。
(王 昌)
 

授業で最初にお会いした印象通り本当に優しくて素敵な先生でした。敬語の形式だけに気をとられすぎず、敬語を使ったコミュニケーションに重点を置こうと思いました。敬語はまずは使えるものから徐々に使える範囲を広げていきたいです。また、日本語教育において、日本語は誰のものではなく日本語を使う人なら誰のものにもなるということが印象に残っています。言葉はコミュニケーションのためにあることに改めて気づかされました。

(田中美里)

 

コラム

蒲谷先生が驚いた不思議な!?敬語
祝!!創立10周年「待遇コミュニケーション学会」
学部の授業

蒲谷先生が驚いた不思議な!?敬語

  1. 「お召し上がり方」
    「お召し上がり方」という、そんな言い方があるのかと思っていたら、だんだん広まって来て、コンビニのおにぎりなどにも「お召し上がり方」と書いてあって驚きました。「食べ方」を敬語化したものでしょうけど、それが「お召し上がり方」になるというのも、ちょっとおもしろい現象だと思いますね。
  2. この製品は電気を食べません
    「道草を食う」ではなく「道草を食べる」などという言い方を目にし始めたころ、関連して一番衝撃を受けたのは、「この製品は電気を食べません」と書いてあったことですね。「電気を食う」という慣用的な言い方では「食う」が悪い言葉だと思ったのか、そこだけ美化語にして、「電気を食べません」と書いてありました。それは「道草を食べる」と同様、どこか不思議な表現で、びっくりしましたね。
 

祝!!創立10周年「待遇コミュニケーション学会」

待遇コミュニケーション=待遇表現+待遇理解
待遇コミュニケーションというのは、人間関係や状況に重点を置いてコミュニケーションを捉えるもので、表現する主体からだけではなく、例えば、「〇〇さんもいらっしゃいますか」と「お前も行くのか」と言われたときとでは違う受け止め方をするように、理解をする主体の側からも考えていく捉え方。



 今後待遇コミュニケーション学が目指している目標があればお聞きしたいのですが。

蒲谷
 そうですね、待遇コミュニケーション学の目指す方向として、一つは、人と人との関係を対象にしたコミュニケーション研究の領域が広がっていくといいなということです。もう一つは、みんながより良い人間関係を作って、お互いのことを尊重し合えるような社会を作っていくことに貢献することだと思っています。非常に大きな夢だけを語ると、待遇コミュニケーション学というのは、平和学だと思っているんですね。平和の大切さに向かっていくような研究とか、教育のあり方ということも考えていきたいなと思います。
 

学部の授業


 私と田中さんは先生が担当されている「敬語表現論」の授業で初めて会いました。その授業では、日本語教育研究科の院生と学部生が混在し、グループ活動がたくさん組み入れられていて、留学生が日本人の学生に敬語の体系を説明する光景もしばしば見受けられましたが、このような独特な授業は、どういう発想に基づいて立ち上げられたのでしょうか。

蒲谷
 留学生の人が日本人の学生に日本語の敬語を教えたり、日本人の学生が留学生に質問をしたりするというのは、大げさに言うと感動的な光景であって、それは私が日本語教育でイメージしていることなんですね。それはどういうことかというと、日本語は日本人だけのものではないと思っているんですよ。日本語は、日本語でコミュニケーションするすべての人のものだから、そういう光景が生まれてくるのは必然だと私は思っているんですね。授業でもそこはなるべく意識するようにしています。これから先も、色々な背景を持つ人が混在して、日本語でみんながコミュニケーションしていくということにつながるのかなと思っています。グループ活動をする意味は、他者とコミュニケーションすることで自分の考えを広げていくとか、自分の気がつかないところに気づくようになるということで、そういうことを目指していく授業がしたいなと思って、教師になった最初のころから、ずっとやっています。

田中
 授業で依頼メールの書き方を扱いましたが、そのときに大学院生の方が添削をしたものが返ってきて、いっぱいコメントを書いてくださってすごくためになったので、やはり日本語は、日本語を話す人であったら誰でも教え合えるんだなとすごく実感しました。

蒲谷
 表現したものを直したりチェックすることにどのような意味があるかというのは別の検討が必要ですが、それが自分の参考になるのであれば、色々な人の指摘は役に立つと思いますね。私が書いたメールや例文でも、私が書いたと言わないで出したらみんなが直してくれますよね(笑)。私はこれでいいと思って書いたんですが、学生たちから、これは変だとか、ここはこうした方がいいといったアドバイスを受けたこともありました。でもそれは、表現をよりよいものにしていくために役に立ちますね。
 

「わが大学の先生と語る」記事一覧


ご意見・ご感想はこちらから

*本サイト記事・写真・イラストの無断転載を禁じます。

ページの先頭へ