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齊藤
京都大学のオープンキャンパスに参加した高校生のとき、総長だった山極先生が、「おもろい」をテーマに京大の魅力を語られていたのが印象的でした。最近、いちばん「おもろい」と思った経験を教えてください。
山極
鹿児島で、「薩摩会議」というイベントに参加したんですよ。30~40代の、僕からみれば若者たちの企画で、「○○×Transformation」という様々なテーマで討論するんだけど、おもしろかったね。もはやひとつの企業に就職して、年功序列・終身雇用で働こうとは皆思っていない。いったん就職しても、おもしろいことがあったら企業を辞めて自分で新しい企画を立ち上げるという野心のある人が多い。兼業や多業を当たり前に考えている。それから都会に住んでいなくても、オンラインのネットワークをつかって、世界とつながっていろんなことをやろうという。大企業に就職してその企業の目標を果たすのではなく、自分たちの目標を立ててやっていく。そう考えている人が多くて、これは世の中変わるなと思いましたね。ものすごくおもしろかったのは、「歴史×Transformation」というテーマで登壇した木戸寛孝さん(木戸孝允の子孫)のお話。
明治維新というのは、尊王攘夷とか思想の対決だと思っているかもしれないけど、そうではなくて、「脱藩」という現象なのだと。藩という組織では、自分たちの野心はかなえられないと思って、みんな脱藩して、新たな日本の姿を描いていった。組織から抜け出す、というのが明治維新の姿なんだよね。
いま、同じことが起こっています。ただそれは明治維新のときのように政治に目標を置くのではなくて、ビジネスや遊びなどに野心を見出している。今の若い人たちはなかなかやるなという感じがしましたね。
齊藤
ときどき想像するのですが、国家というものも絶対的ではなくなっていくのでは、と。国境を超えてネットワークを作れる時代になっていて、枠組みから変化が起きています。
山極
僕は最近、人類はどこで間違ったのかということをテーマにしているんですね。歴史や進化を遡って、人間が歩んできた道を検証する必要があると思います。政治家は「科学技術の積み重ねの結果で現在があるから、後戻りはできない」と言うけれど、後戻りはできるのです。
例えば、通信情報技術が発達して、移動コストが小さくなりました。僕は第二のノマディズムというか、遊動時代が始まると思っていて。遊動時代というのは実は農耕牧畜よりも前だよね。前の時代にそのまま戻るわけではない、でも精神的には戻るかもしれない。今、ロシアがウクライナを侵攻して戦争になっているけれど、狩猟採集時代は大規模な戦争はありませんでした。なぜなら、トラブルがあればその場を離れていたから。領土は無く、地球全体が共有地だった。人間だけではなくて、人間と動物の共有地だったのです。動植物の会話を人間は感じることが出来たから、それが自分たちにそぐわなければ移動していった……そういう時代に戻れるかもしれません。そうしたら戦争なんかしなくていいわけだよね。それは極端な言い方だけれども、例えばいま、通信情報革命で移動が自由になったということは、あるものがなくてもよくなったということ。何だと思う?
齊藤
決まった領土とか……?
山極
うん、「所有」がなくていい。今まで人間の価値を決めるものは所有でした。お金も所有物でしょう。
お金持ちは社会的地位が高いと考えられてきました。でも移動が一般的になると、財産があっても持ち運べないし、拠点をたくさん持つようになれば、ひとつのところに何かを溜めておくのは意味がないから、所有ではなく、現地調達が当たり前になる。僕らの学生時代は、スキーに行くのであれば道具や装備は全部持っていきました。今は、現地で調達しますよね。それも、買うのではなく、借りるためにお金を払う。つまりシェアの時代。そうすると低コストで、自分が所有しなくて済みます。だからこそ多拠点居住が可能で、それが人生を豊かにすると考えている人が多い。コロナや震災を経験して、1か所に住んで大災害に遭遇する危険に備えるよりも、複数の箇所に拠点をもち、渡り歩きながら住んでいるほうが気楽で良い、と考える人が増えました。1か所に住んでいたら、その土地で様々なトラブルに巻き込まれるかもしれないけど、何かトラブルが起こったらどこかに行ってしまえばいい。それが狩猟採集民的な生き方です。
シェアとコモンズ―― 共有財産というものをみんなで分かち合っている社会は、平等になります。格差ができない。なぜなら所有物がないから。人と人とが頻繁に交流し合っていると、違う人たちへの理解が深まる。世の中にはいろいろな言語や文化があるが、他の文化や能力をもった人たちへの許容度が増す。また、モノを使って人間の価値を判断しなくて良くなり、行動に価値を見出すようになる。いまでもそうなりつつあるよね。だって、インスタグラムにね、「私は○○を持っています」というよりも、「○○をしました」の方が、「いいね」がもらえるんです。そちらが共通の価値になりつつあります。歴史や進化を見つめて、ある時点で間違ったところを検証し、そうではない方を選択することが、今ならできるのです。
山極
ではいったい、人間の本質は何か。何だと思う?
齊藤
想像することと、信頼すること。
徳岡
他者を信頼したり、愛したりすること。
山極
そうだよな。僕は、「共感」だと思う。共感はもちろん動物にもあります。でも人間は度を越して共感している。共感という日本語は、英語では3種類あります。まずはempathy。これはサルももっている。何かしている仲間の感情がわかるという共感。認知段階が進むと、同情、sympathyがでてくる。相手の状況がわかって、自分が何か支援をすればその状況が変えられるとわからないと、同情という感情は起きない。共感したうえで、相手を出しぬこうとすることもできますが、そうはせずに同情する。compassionもあります。ひとりではなくて、皆でそれをやろうとする意識。類人猿と人間の違いは、指差しが理解できるかどうかということにある。人間は幼い頃から、何かを強調するような指示があると、それが起きている方向だけでなく、その内容を理解しようとします。だから一緒に何かしようという意識が瞬時に沸き起こる。
言葉によって人間は、遠くで起こったことや過去に起きたことも理解できるようになりました。類人猿は自分が参加していないと理解できない。第三者として他者どうしのやりとりを見ても理解できないから、映画などは理解できません。仲間に対して自分の不利益を承知で助けようとする、というのも人間だけの特徴です。もちろん子どもに対して自己犠牲をする動物はいるけど、それは子どもを自分の一部として捉えているから。母親以外の個体は、自己犠牲を払ってまで子どもを助けることはしません。でも人間は、仲間のためには自己犠牲をいとわない。共同の食事や共同の子育てをするなかで人間は大きな社会力を手に入れました。その過程で高い共感力を発達させる必要があったのでしょう。
でもそれが、いまわれわれを悩ませているわけです。戦争がそうだよね。自己犠牲を払ってまで仲間を助けようとする。あるいは、共感力は仲間内にしか発揮できないので、集団の外に敵をつくって団結する、ということが起きてしまう。しかもそれは、言葉によって過剰になっている。言葉の暴力だね。言葉のもっている大きな機能に、比喩があります。あいつは豚のようだ、狼のようだ、と、その人のもっているイメージをつくり変えてしまう。相手に攻撃を向けてしまえるようになる。
だから、共感力のうえに言葉ができたという認識が重要です。人間の本質は言葉よりも前にあった共感力の高さで、むしろ言葉によって共感力の方向性がつくられてしまった、と考えるべき。僕は戦争や暴力は共感力の暴発だと呼んでいます。
それから、西洋の農業には牧畜が必ずありました。人間は家畜の力によって本来の自分たちよりも大きな力を使えるようになった。でもその対象を人間にしたのが、奴隷なんですよ。労働力として違う国の人々を差別し奴隷とすることによって、高級な市民社会をつくり、文明ができていったというのがひとつの歴史だけど、違う歴史があったということも思い出さなければいけません。
霊長類の研究では、人間の本質に焦点を当てている学者がたくさんいるんだけど、彼らはホッブズ派とルソー派に分かれています。ホッブズは人間の自然状態は闘争状態だとし、ルソーは逆に、他者に干渉しない平和な存在だとする。『善と悪のパラドックス』は前者、『共感の時代へ』は後者の研究者が書いた本。
徳岡
アフリカで研究をする魅力とは何でしょうか。
山極
アフリカといっても砂漠やサバンナ、山地など色々な場所がありますね。僕はサバンナとか砂漠は知らないけれど、アフリカの赤道直下の熱帯雨林はいくつも行きました。そこはやっぱり虫の天国だったね。色々な虫がいる。それから昼と夜の世界があった。昼より夜の方がうるさいんだよね。両生類がよく鳴く。我々はサルの仲間だから昼の世界しか知らないわけですよ。でも夜にも非常にいきいきとした生き物の時間があるということが熱帯雨林に行くとよく分かる。哺乳類だって夜行性ばっかり。ゾウだって夜行性。昼間は鳥と虫の世界なんです。
徳岡
想像するととてもワクワクします。
山極
ジャングルって意外に植物は根を張らないんです。板根と、樹冠という枝が絡んでいる部分で木は支え合っている。だから大風が吹いて大木が倒れると、一緒になって他の木も倒れて、そこにギャップと呼ばれる穴が空きます。熱帯雨林では密に木が生い茂っていて1%くらいしか日光が地面まで届かず、林床は空いてるんだけど、ギャップができると日光が降り注いで実生が育ってくるわけですよ。そういうギャップ更新がしょっちゅう起こる。そこでサルが休んで糞をして糞に混じった種子が発芽して……という風に、多様な生物がいることで様々な可能性が芽生えている。それを自分の目で見られるのが面白いところです。
あと熱帯雨林は日本と違って四季がないから、植物の育ち方がランダム。1年間に3回も実るとか、数年間全く実を付けないとか。何が起こるか分からないのも面白いんだよね。
齊藤
社会で生き抜く上で最も必要な力は何でしょうか。大学生へのメッセージとともにお伝えいただきたいです。
山極
それは好奇心。好奇心というのは自分ひとりで居ても出てこない。何かに出会わないといけないんです。僕は人間が駆使しなければいけない3つの自由があると思っていて、それは動く自由、集まる自由、語る自由です。3つともコロナの時代に抑えられてしまいました。これが問題だと思っていて。今は流動の時代に入っているわけだから、動いて集まって語るというのが重要。なぜかというと、人は出会いによって新しい気づきを得るから。出会うのは別に人でなくてもいいんだよ。動物でも植物でも、岩でも川でも海でもいい。自然というのは毎日変わっていくから、同じ出会いは二度とない。毎日更新されていくものに気づくのも人間の能力なんだよね。人間以前の能力と言ってもいい。だって植物も動物もみんな気づいているわけだから。でも人間はそれを言葉によって仲間と伝え合うことができるのです。それが語る自由。
僕は総長時代ずっと「自由」って言ってきたわけだけど、京都大学は「自学自習」を大事にしています。自学自習というのはひとりで考えひとりで学ぶのではなくて、学んだことをみんなで語り合ってそれを共有することなんだよね。教えられたことをそのまま繰り返すような高校生までの学びではなくて、ひとりひとり気づいたものを語り合って、また新たな気づきを形にしていくというのが本来の学び、大学の学びだと思う。そのためにはそれぞれが好奇心を持って気づかないといけません。
もっと重要なのは、人生を楽しく生きるためには、適切な問いを立てなくてはいけないということ。研究者でもそれ以外でも、問いを立てなくちゃいけない。問いの立て方を間違えるとその問いに対する答えは一生得られないし、問いの立て方が簡単すぎるとすぐ答えが得られてしまうから面白くない。だから「まだ分からないけれど、答えが得られそうな問い」を仲間と対話をしながら作らなくちゃいけないんだよね。その問いを共有することで学びというのはもっと楽しくなる。人生はずっと学びなんですよ。別に研究者ではなくたって。それは問いがあるから学びなのであって、問いのない学びはない。人が言ったことを繰り返すだけでは学びではない。自分が立てた問い、あるいは仲間と一緒に立てた問いに対する答えをそれぞれ見つけていくこと。その中に浮かび上がってくるのが自分なんだよね。自分というのは自分が立てた問いが作ってくれる。
『アニミズムという希望』という本の中では、自分が美しいと思ったもの、畏敬の念を感じたもの、好きだと思ったものは何でも「カミ」だと言っている。植物でも動物でもいい。それをじっと見た時に、向こうが見返してくれると思える時が来る。その時にそこに自分が映し出されていく。そういうものを見つけ出すことが、「カミ」を見るということなんだよね。
僕が長い研究生活の中で「研究者をしていてよかったな」と思うのは、思いがけない問いが現れたり、思いがけないことが眼前に繰り広げられたりするとき。自分の世界観がガラッと変わるような出来事との出会いが必ずあるわけですよ。それは常に出会いというものを大切にし、問いを立てていないと巡り会えないものだと思います。それをぜひ見つけてください。
齊藤・徳岡
ありがとうございました。
板根(ばんこん)
樹木の地表近くの根が平たい板状になったもの。木を支えたり空気を通したりする働きをもつ。
林床(りんしょう)
森林の木々の下にある地表のこと。
実生(みしょう)
種子から発芽したての植物。みばえ。
山極先生には今回、先生が2021年から所長を務めておられる「総合地球環境学研究所(地球研)」にて、お話を伺いました。京都大学からバスを乗り継ぎ、北西方向におよそ1時間。森の中にたたずむ、焦げ茶色の木の壁が素敵な建物が研究所です。
地球研は2001年に設立され、そのモットーは「地球環境問題の根源は、人間の文化の問題」。自然科学と、人文・社会科学双方の視点を取り入れた研究が行われています。
参考:地球研ホームページ:https://www.chikyu.ac.jp/
齊藤 ゆずか
山極先生のご著書を読んで、めまぐるしく変わってゆく社会に対して、鋭い観察眼をもたれていることが印象的でした。それはジャングルで言葉を使わずにゴリラと向き合い、五感を研ぎ澄ませてきたからなのだろうと、お話を聞いていて思いました。前へ前へと急かされているようにも感じられる今日この頃、先生の「後戻りはできる」という言葉が胸に響きました。貴重な機会をいただき、ありがとうございました。
徳岡 柚月
初めて山極先生を拝見したのは、京都大学の入学式の時。総長として壇上に立っていらっしゃるお姿を見て、自然と「ボス」だと認識した記憶があります。それ以来ずっと憧れの存在だったため、今回お話しさせていただきとても嬉しかったです。適切な問いを立て、その答えを求め続ける。どこにいても、だれといても、仲間と共に問いを追い続けて生きていきたいと思います。胸が熱くなりました。お忙しい中、ありがとうございました。
山極
7~10万年ほど前にできたといわれている「言葉」は、大きな恩恵を僕らにもたらしてくれたように思われているけど、そうではないかもしれない。ゴリラと付き合っていると、彼らは言葉をもたないから、僕は彼らの一挙手一投足を見ながら、心の中を推察している。ゴリラも僕を同じように見て、通じあえる。あるいは森を歩くときは、何がこれから起こるのか、起こりつつあるのか、想像しながらでないと突然の事態に対処できない。違う気配を感じないといけないわけ。狩猟採集していた時代の人類にはその感覚があったに違いない。言葉で通信しあうようになって、世界が広がったように感じるけど、でも、肝心なことを見抜く力が失われてしまったかもしれない。『人間のはじまりを生きてみる─四万年の意識をたどる冒険』、『アニミズムという希望』はそれを書いている本で、僕がずっと考えてきたこととぴったりあう。
人間は植物とも会話をしてきたはずだけど、人間の言葉に翻訳できないから、それを感じる力を失ってしまった。植物にはまだわからないことが多くある。僕らは土の上ばかりみているけど、土の中には菌がいて、土の上とは違う関係が成り立っている。狩猟採集時代は、土の上を見ながら土の下を想像することが出来ていたはず。植物が出すコミュニケーションというのを、鳥も、蝶も、毛虫も、動物も、それぞれのやり方で感じているはずで、人間もそれを感じられたはずだけど、特定の穀物を栽培することに力を注ぎ込んだあげく、できなくなってしまった。飛躍するようだけど、それがいまの地球の破壊をもたらしていると思う。家畜もそうだね。現代の家畜は動物ではなく、工業生産物のよう。檻にとじこめられ、成長が速いように改良されてね。生命としての働きをほとんど失った中で飼育され、肉にされて食べられている。改良に改良を重ねた結果、生命でありながら生命ではないものを作り上げてしまった農業。それが本当に正しかったのか、もういちど見直さなければならない。
工業も見直す必要がある。産業革命によって新しいエネルギーである化石燃料を発見して、それによって家畜に頼っていた力を拡大して工場をつくり、都市をつくりあげた。でも都市は、ほとんどが、人間が住めないようなところにつくられているわけだよね。港や湿地を埋め立てて。そこに人々が集まりすぎて、自然もまったくないようなところで、毎日毎日決められた時間を管理しながら暮らしている。時間を管理することは、人間を管理することにつながる。人間は自然の時間に寄り添って生きてきたはずなのに、自分たちがつくった時間に管理されるようになってしまった。それは本当に正しかったのか。見方を変えて眺めてみると、人間はなんだかおかしなことを始めたよね、という気がしないでもない。そういう風に物事を眺めないといけない時代ではないかなと思う。
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