阪神淡路大震災体験談

大学生協共済連 藤本昌さん インタビュー

関西地域で多くの家屋の倒壊や火災などの大きな被害をもたらした「阪神・淡路大震災」が発生してから今年で25年を迎えました。25年という年月が経った今だからこそ当時の経験を知ることで、現在を生きる私たちにどのようなことができるかを考えます。
また、インタビューの中では防災や災害支援以外にも日頃から私たちが生活していく中で大切にしていきたいことは何かということも考えます。

【参加者】

藤本 昌さん
全国大学生協共済生活協同組合連合会
(共済推進部)

藤本 昌 さん

【インタビュアー】

児島 佳幸
関西北陸ブロック学生事務局

児島 佳幸

【インタビュアー】

井上 弥咲
全国大学生協連学生委員会

井上 弥咲

児島:
まずは今回のインタビューにあたって藤本さんの方でご用意していただいたプレゼンをしていただいてから、色々と当時の経験やそこから今どのようなことをしていくべきかといったお話を伺っていきたいと思います。それでは藤本さん、よろしくお願いします。

はじめに

藤本:
ちょうど今年で阪神・淡路大震災発生から25年が経って、自分で振り返るにも今回はいい機会だなと思っています。
2年前(2018年)の段階でどれくらいの人が阪神・淡路大震災を経験したのかというのを調べたところ、兵庫県内の約4人に1人が経験していないということがわかりました。25年も経てば、経験者は全国に広がっていますが、兵庫県は約4人に3人が被災経験者として住んでおられるんですね。
これを見たときに自分の感覚では、自分の周りも兵庫県から出た人が多いので、もう少し少ないかなと思っていました。四半世紀が過ぎた現在でも、被災体験者が“直(じか)に語り継げる”環境にあることを再認識しました。

阪神淡路大震災が発生した当時の状況

藤本:
当時の様子は、まずこの動画を見てもらいたいです。

少し生々しい映像ですので、気分が悪くなったら、すぐに見るのをやめてくださいね。
当時、大きな被害があった神戸市須磨区にとてもお世話になっていた大学の先輩の実家があったんですね。幸い、ご家族とも命はとりとめられたものの、家屋が全焼したんですよね。まずは、その光景が脳裏によみがえりました。今回、あらためて当時の映像を見て、いろいろと思い出しました。

当時の自分の状況といえば…。ちょうど震災の3か月前に結婚したばかりだったので新婚でした。実は、震災の前日まで夫婦で長期休暇を取って北海道へスキー旅行に行っていました。1月16日の夜、阪神高速道路を通って空港バスで帰ってきました。「あぁ、翌日からは仕事か~」と思いながら帰ってきたことを覚えています。

その翌朝にドカンと突然、強い揺れが来ました。その衝撃で結婚祝いにもらったガラス製の花瓶が頭の横に飛んできたりしました。それまでは、体感する地震なんてほとんど経験したことがなかったので、全く地震という感覚はなく、「この世の終わりかな」と思いました。マンションの上の階が落ちてくるような感覚だったと記憶しています。気がつけば、家具とかもぐちゃぐちゃでした。
外はまだ真っ暗だったけど、夜が明けた頃に南の空を見ると、真っ赤でかすかに煙も上がっていました。長田区や須磨区の方向で「なんで町が燃えとるんや?」と思った記憶があります。
電気もガスも止まっていて、恐る恐る最寄り駅へ行ったら駅前の水道管が割れて、地面から水が溢れ出ていました。とにかく衝撃が大きくて、目の前の景色が全て信じられませんでした。自分が住んでいたのは、神戸市北区だったので、震源地からはすこし離れていましたが、それでもそういう様子でした。

職場についてもお話ししておきますね。当時、私は大学生協神戸事業連合で働いていたので、総務部長に連絡を取ろうとしたのですが、全然、電話もつながらなかったんです。何度も何度も電話してようやく夜につながったのですが、奥さんから「主人は車で早朝出勤していて今も連絡が取れない。もう駄目かも…」と言われました。部長さんはその時間帯に一部崩壊した阪神高速道路の上におられたのです。彼の車は前方のトラックに衝突して止まり、ケガをした足を引きずりながら、非常用のらせん階段を下りて、自力で自宅へ帰られたそうです。到着は17日の深夜だったとのことです。前日、私たちが通ってきた高速道路だったので、とても心配していましたが、なんとか生き延びておられて本当に安心しました。
今では当たり前にみんなが持っている携帯電話がなかった当時は、なかなか連絡も取れずに、そういう状況でした。

震災当日は、直後は身体の震えが止まらないし、パニックになっていた中で、なかなか連絡もつかなかったけど、やっとの思いで関係者と連絡を取ることができた、といった感じでした。

地震による被害とその後の生活の変化

藤本:
その後の変化という点では、当時、私はマンションに住んでいたんですが、その建物内のひび割れた壁から空き缶とか新聞紙が出てきたんですよね。「手抜き工事だったのでは?」と自治会で問題になったことを思い出しました(その後、ちゃんと調べて、そうではなかったのですが、ストレスになりました)。その他にも思いもよらないことがいろいろ起きました。

仕事では、鉄道が大きな被害を受けて利用できなくなったので、通勤ルートがすごく遠回りになって片道4時間くらいかかるようになってしまいました。そのルートしかなく、電車はいつも満員で、コロナ禍の今では考えられないほど「密」な状態でしたね。そんな生活が約半年間、続きました。妻も働いていたのですが、彼女の通勤ルートには、写真にある傾いたビルがあって、毎日ここを通る時間帯は気が気じゃなかったことをよく覚えています(そのビルは、ほどなく倒壊しましたが、幸いにも犠牲者は出ませんでした)。

携帯電話のない当時は、ポケベルと登録した職場の電話番号だけにつながる専用テレフォンカードで職場と連絡を取っていました。この後、社会全般に「ボランティアと携帯電話」の普及がしていきましたね。1.17は、その契機になったと思います。

当時は、私たち被災者のために、全国から多くの物資などの支援をいただき、本当の有難いと思った反面、どうしてもタイムラグがあって、必要なものは刻々と変わっていくのでニーズとかみ合わないことがよくありました。たとえば、来る日も来る日も賞味期限を気にしながら、おにぎりやカップラーメンを食べていた記憶があります。こんなことを言っては、罰が当たりますね。でもあえて、お伝えしておくべきかな、と思ってお話ししました。

身内は奇跡的に全員無事だったものの、大学生協の職場では犠牲者も出てしまいました。仕事で日常的にやり取りをしていた方もその中の一人でした。言葉が見つかりませんでした。大学では学生や教職員なども犠牲者が出てしまい、とても悲しい想いをしました。
一方で、旅行が好きだった私あてに、国内外でご縁のあった方々から思いもよらないご連絡も多数いただいて励まされた。

震災後、昨年(2019年)までずっと開催されている「神戸ルミナリエ(震災を忘れないことを目的としたイベント)」は、発生直後の1995年はほとんど人がいなかったですね。今年はコロナ禍で中止のようですが、こうした目に見える形で想いを継いでいくことも大切ですね。