奥村 弘 先生
神戸大学理事・副学長
大規模地震災害時の記憶の特徴はなんだろうか。100名を超える方の被災体験をお聞きしてきて、地震災害の特色は、大災害という共通性と、被災地での体験の多様性が共存しているところにあると私は考えている。大災害のニュース等の映像は、被害の激しい場所を切り取って報道するため、すべてが失われるよう見えることも多い。しかし、実際には、被災のあり方は多様で、その中で人々は生をつないでいった。
大震災から30年が経ち、神戸でも震災を知らない世代が社会を支えるようになった。この世代にとって記憶を継承することは、震災を歴史として学ぶ上に成り立つ。体験者の聞き取り、震災に関わる資料(震災資料)や映像の読解、研究者の著作の学習や、小説や映画等の検討、記憶を継承していく道筋はひとつではない。その中で、私は共通性と多様性を継承していく上で、震災資料は特別な意味を持つと考えている。それは「もの」であるが、人々の記憶の塊である。その意味を読み解く中で、私たちは、その時代に生きた人々と対話し、その生をしっかり捉えることができるのであり、そのことは、今後も続く大災害の中で、一人一人を大切にした対応の基礎となるからである。
全国大学生協連 専務理事 中森 一朗
(1995年1月当時:全国大学生協連学生理事を任期終了し、同年3月より京都大学生協就職予定)
中森 一朗
全国大学生協連 専務理事
「O大学店舗は完全倒壊」「K大学生協・○○理事の死亡を確認」・・・当時の現地対策本部報告からの抜粋である。
私の任務は報告を作成し、大学生協連を通じて全国の会員生協に発信することだった。
あの日は東京にいた。テレビをつけたら聞き慣れた地名が倒壊したビルや高速道路の様子とともに映っていた。現地情報を待ち焦がれていたときに、「関西に明るい」という理由で現地赴任の要請を受けた。全く躊躇はなかった。西宮北口から現地対策本部のある上ヶ原までは瓦礫の中を歩いた。途中避難所の小学校で子どもたちがサッカーをしているのを見て、ほっとしたことを覚えている。
当時は回線事情も悪くなかなか現地報告が送れなかった。「絶対に送る」と決め何度も接続を試みた。東京からは全国の会員生協に発信してくれた。すると、使命感に燃えた全国の生協職員が神戸に集まってきた。まもなく生協職員となる私が、懸命な支援活動を続ける彼らから学ぶことは本当に多かった。
2月には全国の大学生が芦屋の宿舎に結集し、その後被災者支援に奔走した。「ボランティア元年」である。3月には住居をなくした大学生のための仮設寮建設が始まった。ログハウスを活用した仮設寮建設は手作業であり、「僕、ここに住むんです」と作業に参加した被災学生を拍手で迎えた。結局3月末まで現地対策本部の活動に従事した。復旧した居酒屋で開催された送別会で大泣きした。
私は直接地震を体験していないし、被災の実情を目の当たりにした経験も多くない。けれども、現地の方々と寝食を共にし、自分にできることを真摯に行い続けた。その時の心の底からの「たすけあい」の経験は、間違いなく現在の自分を形作っている。
全国大学生協連 学生委員 久野 耕大
久野 耕大
全国大学生協連 学生委員
2025年は阪神・淡路大震災から30年の節目となり、復興の道のりを振り返る中で、私たちが直面する新たな課題にも目を向ける年です。昨年、奥能登(主に輪島市)を訪れた際、地震被害の爪痕が未だに深く残る現状を目の当たりにしました。多くの住宅が放置され、避難所や仮設住宅での生活が続いている方々が多いことからも、復旧作業の遅れが実感されます。特にインフラの復旧が最優先とされている中、道路や水道の修復が進まない限り、住宅の復旧もままならない現状があります。
しかし、訪問活動を通じて得た最大の収穫は、現地の方々との対話から見える希望の光です。25組の現地の方々と直接お会いし、支援が現地の方々にとってどれほど励みになるのかを実感しました。被害状況を写真に収める際にも、地元の方々から快諾を得られたことは、自らの現状を広く知ってほしいという切実な思いの表れでしょう。
阪神・淡路大震災から30年経った今、私たちは過去の教訓を活かし、能登半島の復旧支援にも全力で取り組むべき時です。時間と全国からの継続的な支援が必要とされる中で、私たち一人ひとりの小さな行動が、大きな力となることを改めて認識しました。能登の地が再び活気を取り戻す日を目指し、さらなる支援の輪を広げていきましょう。
丸山 和栞さん(京都大学文学部1回生、生協学生委員会・京大銭湯サークル所属)
丸山 和栞さん
30年前に近畿地方を襲った阪神淡路大震災。私の母は前日まで神戸におり、神戸の海運会社に就職を決めていました。夜が明けると思い出深い町が変わり果てた様子で広がり、内定も取り消されたそうです。そのような母の話を聴き、陳腐ですが日常の大切さと変わってしまったものは二度と戻ってこないことを実感しました。私自身、まだ大きな災害を経験したことはありませんが、実家では防災グッズを常備したり、地域の避難訓練に参加したりしていました。震災を防ぐことはできませんが、誰かを悲しませずに済むよう備えたいと思っています。
(2025.01.17.)