座・対談
「みんなに伝えたい「箱根駅伝」の話」
池井戸 潤(作家)

 




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1. 物語がはじまるまで

 

池井戸潤
『俺たちの箱根駅伝 上・下』
文藝春秋/定価(各)1,980円(税込) 購入はこちら >

手賀
 4月刊行の『俺たちの箱根駅伝』は、タイトルの通り箱根駅伝をテーマに描かれていますね。駅伝を描こうと思われた動機を教えていただけますか。

池井戸
 そうですね。実は、箱根駅伝のことを小説に書こうと思ってから書き上げるまで、10年以上かかっているんです。

手賀
 10年も?

池井戸
 ええ。なぜそんなに時間がかかったのかは後で説明しますが、書こうと思ったのは、箱根小涌園(現・箱根ホテル小涌園)のエピソードを知ってからです。箱根駅伝の中継で日本テレビ(以後、日テレ)のアナウンサーは、大手町や芦ノ湖など、どの地点も「地名」で呼びますが、「小涌園前」だけはいちホテルの名称である「小涌園」と呼びますよね。それは不思議ではないですか。
 
手賀
 言われてみれば、確かにそうですね。
 

池井戸
 それには理由があるんです。日テレの初回の中継は1987年に行われたんですが、キー局と全国の系列局を合わせ約700人が集結することになり、うち300人は生中継が技術的に困難な箱根地区に配置されることになったそうです。しかしなんと、放送直前になっても彼ら300人のための宿が取れてなかった。箱根はそもそも人気の観光地で、正月は特に混み合うので、そんな大人数が泊まれるところはなかったんですね。
 「もう中継は不可能か」と絶望的になっていた日テレに手を差し伸べたのが箱根小涌園で、「正月は宴会がないので、大広間が空いています。雑魚寝になりますが、それでよければ使ってください。温泉も自由に入っていただいて結構です」と言ってくれた。
 そうやって日テレは九死に一生を得て、無事放送することができた。その対応に恩義を感じ、選手がホテルの前を通過するときは、地名ではなく、「小涌園前」と呼んで感謝の意を示したそうです。そのエピソードを知ったときに、「面白い。これは小説になる」と思い、さっそく初代プロデューサーの坂田信久さんに会いに行ったんです。
 その後、初代総合ディレクターの田中晃さん(現・WOWOW会長)に話を伺ったり、滅多に入れない日テレの副調整室に入れてもらったり、箱根の中継センターにも取材に行ったんですが、どうしても書き始められない。なぜかというと、テレビ局側のストーリーは思い浮かぶけれども、選手側をどう描いたらいいか、全然わからなかったんです。


手賀
 具体的にはどういうことですか。

池井戸
 例えば、早稲田の主将を主人公にして書いたとしたら。早稲田大学競走部は実在しているわけだから、彼らが小説を読んだときにどう思うかなと。

手賀
 ああ。

池井戸
 早稲田には早稲田のしきたりや雰囲気があるだろうから、取材なしには書けない。また小説にするとなると、いいことばかり書くわけではない。それを選手たちが読むと思うと、なかなか書き出せない。そうしているうちに時間だけが過ぎていき、取材先の中には「書く書く詐欺じゃないのか」なんて冗談が飛んでいたという噂も……(笑)。

一同
 笑

池井戸
 それが、3年ぐらい前に、「今年もダメかも」と思いながら儀式的に本選を観ていたときに、突然ひらめいたんです。予選会で敗退した選手たちを書けばいいのではないかと。取り上げる大学の数も多くなるし、自由に想像を羽ばたかせる受け皿になり得ると気がついたんです。
 それでようやく書ける確信を得ることができ、『週刊文春』の連載が始まりました。当初は1年で終わるはずが、全79回、2年近くも続いてしまいましたが(笑)。

 

 

2. 箱根駅伝番組の裏側

 

手賀
 スポーツとメディアのつながりが描かれていたのもすごく印象的でした。


池井戸
 「箱根駅伝」というコンテンツは言うまでもなく有名ですよね。なぜ有名かというと、テレビで何十年も放送しているから。でも、正月の二日間、早朝から14時までずっと生中継するというのは、本当にすごいことなんです。これが普通だと思ったら大間違いで、奇跡的に存在している番組なんです。
 あの番組を企画したのは坂田信久さんという気骨あるプロデューサーで、彼が箱根駅伝の全区を生で中継したいと思ったわけです。
 しかし、番組を成立させるには大きな障壁があった。その頃の放送技術では、大手町から箱根湯本駅までは中継できるけれども、そこから先の箱根の山岳コースの生中継は不可能に近かった。電波は真っ直ぐにしか飛ばないため、曲がりくねった山の道や生い茂った木々が邪魔をして、映像と音声を本局まで途切れさせずに繋げるのは困難なわけです。そうした技術的な問題に加えて、時期が年末年始のため、スタッフの確保も難しい。簡単には企画が通らないわけですよ。
 坂田さんは「高校サッカー」の番組も立ち上げた方ですが、プロデューサーとして力をつけ、再び企画を出すんですね。3回目でようやく企画が通り、今につながるあの番組ができあがるんです。OKを出した上層部もすごいと思いますが。
 いちサラリーマンとして考えると、こんな難しい番組を企画して通すというのはもの凄いことで、失敗すればあっという間にどこかへ飛ばされそうな話ですよね。でも坂田さんは、それを執念で成功させた。
 それを支えたのが総合ディレクターの田中晃さんで、彼が第一回の台本として作ったのが「放送手形」というもの。そのフォーマットは更新されながらいまだに使われ続けている。四十年近く同じ台本を受け継ぐのはすごいことで、そういう意味でも箱根駅伝というのは、本当に稀有なスポーツ番組なんですよ。
 例えば、箱根湯本から芦ノ湖までの5区ははいわゆる山登りの区ですが、途中函嶺洞門という山沿いのトンネルがあります(2015年からはコース外)。その近くに、普段はバラエティ番組で使っているという巨大クレーンが待ち構えている。それを自由自在に動かしながら、向かってくる選手を撮るんです。さらに、下に早川という川が流れているんですが、その川のせせらぎを視聴者に届けたいということで、わざわざ下りて行って、マイクで音を拾っているそうなんです。

二人
 えー!

池井戸
 その音に気付いてない視聴者も多いと思うんですが、それを四十年近くやってるんですよね。

手賀
 だから知らず知らずのうちに私たちも熱中して観てしまうのでしょうね。

池井戸
 解説者やゲストも、大学の元監督や箱根を走ったことのある選手ばかりで、いわゆるタレントは出さない。スポーツ番組として硬派な作りをしています。選手たちをきちんとリスペクトして、正統派の作りで箱根駅伝を伝え続けているんです。これはもう文化財に指定していいような、他にはない貴重な番組なんです。そういうことをみんなに知ってほしいなと思っています。

 

 

3. キャラクターを立たせる

 

古本
 私は選手の書き分けがすごいなと思いました。登場人物のキャラクター一人ひとりの個性とバックグラウンドはどのように書き分けられていたのでしょうか。

池井戸
 どうしているんだろうな(笑)。新作を書くときには登場人物一覧表を作るんですが、僕の場合、一作にだいたい五十人から八十人ぐらい出てくるので、これがないといろいろ間違えやすい。
 まずやるのは名前を決めること。青葉隼斗あおばはやと甲斐真人かいまさとなど、主人公にふさわしい名前をつけるようにしています。名前の響きとその人物の印象を一致させたいので、「これだ」という名前が見つかるまで探し続けます。チャットGPTに聞いたこともありますが、あまり役に立たなかったなあ(笑)。

古本
 安愚楽あぐらというキャラクターも魅力でした。計図けいともいいですよね。

池井戸
 読んでいる人が忘れないように、その人物の名前や生い立ち、セリフなど、印象に残るようなものにしているつもりです。でも、たまに間違えることもある。何本か平行して連載をしていたときに、校閲の人に、「この人物は、別の連載の登場人物では」と指摘された笑い話もあったりして(笑)。

手賀
 間違えてしまうこともあるのですね。

池井戸
 小説の舞台やキャラクターが似ていると、そういうこともありますね。今回は特に、登場する大学の数が多かったので、 全チームが同時に走る本選のシーンでは、エントリーされていない大学の選手がなぜか走っていたことも(笑)。

手賀
 今回、大学生ランナーの視点で書かれていて、ミーティングの様子だとか大学部活特有の雰囲気がとてもリアルに伝わってきました。これはどのように意識されていましたか。

池井戸
 作家が一番書きやすいのは、同年代の人物です。僕の場合、おじさんなら完璧に書ける(笑)。上の世代の価値観も知っているので書きやすいけれど、下の世代となると、解像度が怪しくなる。二十代の人達が考えていることは正直わからないし、それが女性となると、さらにわからない。『俺たちの箱根駅伝』の登場人物の多くは大学生なので、その内面に踏み込みすぎると違和感が生じるかもしれませんが、「レースをどう戦うか」「どうやって勝ちにいくか」といった、どの世代にも共通する悩みに軸足を置き、選手同士の話し合いを中心に書いていきました。それが正しく書けているかどうかは、ちょっとわかりませんが。

手賀
 多分その場面があったからこそ、私たちも感情移入しやすかったと思います。

池井戸
 ということは、うまく書けたということかな(笑)。

 
 
P r o f i l e

池井戸 潤(いけいど・じゅん)
1963年、岐阜県生まれ。作家。
慶應義塾大学卒業。
98年『果つる底なき』で第44回江戸川乱歩賞を受賞しデビュー。2010年『鉄の骨』で第31回吉川英治文学新人賞、11年『下町ロケット』で第145回直木賞、20年第2回野間出版文化賞、23年『ハヤブサ消防団』で第36回柴田錬三郎賞を受賞。
■著書に「半沢直樹」シリーズ(『オレたちバブル入行組』『オレたち花のバブル組』『ロスジェネの逆襲』『銀翼のイカロス』『アルルカンと道化師』)、「下町ロケット」シリーズ(『下町ロケット』『ガウディ計画』『ゴースト』『ヤタガラス』)、『シャイロックの子供たち』『空飛ぶタイヤ』『BT’63』『不祥事』『花咲舞が黙ってない』『銀行総務特命』『株価暴落』『ようこそ、わが家へ』『架空通貨』『銀行狐』『金融探偵』『仇敵』『最終退行』『民王』『民王 シベリアの陰謀』『かばん屋の相続』『ルーズヴェルト・ゲーム』『七つの会議』『陸王』『アキラとあきら』『ノーサイド・ゲーム』などがある。最新刊は『俺たちの箱根駅伝』。
 

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