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4.名前にはこだわります

齊藤
登場人物の名前のつけ方についてお聞きします。名前が意識的につけられているのでは?と思うところがあります。たとえば、今回は「あ」行がたくさん出てくるなと感じましたが。
鈴木
確かに。有奈、按、愛とかね。
齊藤
作家名もそうですよね。
鈴木
按が登場人物で出している名前は、ほぼ『赤毛のアン』に関連するものばかりです。
齊藤
『ゲーテ』もそうでしたが、名前がついている人物がいる一方でイニシャルだけという登場人物もいますね。名前の付け方にはこだわりがあるのですか。
鈴木
僕は名前に強いこだわりがあるんです。名前が決まらないと、登場人物が動き出せません。「舟暮按」はアンネ・フランクのアナグラムで、アンネのようにひっそりと書くことを続けて作家になりました。この作品は、ある意味“生き残ったアンネ・フランク”を書こうとした小説でもあるので、名前の由来はそこにあります。同時に、按という名前には普遍性があって、文学的にも広がりがある。だから、他の登場人物の名前もすべてそこにつなげて決めています。
ほかにも、他の登場人物の名前も文学作品から引用していて、編集者の「台場有奈」という名前は、『赤毛のアン』の親友「ダイアナ・バリー」のアナグラムです。ダイアナ・バリー→ダイバアリーナ→台場有奈という流れですね。按の恋人「ウェンディ」は、のピーター・パンと一緒に冒険をする少女「ウェンディ・ダーリング」からとっています。
伊与原
はぁぁ、なるほど(溜息)。
鈴木
今回は、英国文学を一望できるような作品にしたくて、登場人物一人ひとりに、文学的なテーマを背負わせ、構造的に物語を組み立てました。僕にとって「名前をつける」ことは、小説の中で最も濃密に物事を語れる手段であり、説明しなくても気づく人は気づいてもらえるように書く、というのがすごく好きです。『ゲーテ』でも名前にさまざまな企みを忍ばせましたが、今回もそのこだわりを貫いています。
齊藤
そういう作為があったということには、まったく気づきませんでした。隠し扉的な面白さがありますね。
鈴木
ジェイムズ・ジョイスのような作家が好きなので、暗号的な仕掛けを考えるのが楽しく、小説家というより研究者の視点で作品を読み解くのが好きです。仕掛けのある作品は読んでいて発見があり楽しいですよね。ただ、謎かけそのものが主眼になっている小説は苦手なので、物語の中に自然と溶け込んでいるラインを狙って、いつも頑張って書いています。
5. 作家と批評家のあいだで
齊藤
これまでもインタビュー前に様々な作家の方の最新刊を読んで質問を準備してきましたが、今回は論点が多すぎて、話したいことが次々に浮かび、質問が溢れてしまいました。それは多分鈴木さんが作品を論じられることを前提にして書かれているからなんだなと、今改めて納得しました。
鈴木
作家と批評家の立場は本来分かれているべきなのですが、文学が危機的状況にある今、その境界が曖昧になっています。文学は自己言及的な批評性を帯び、自らを語り、自己弁護しなければならない時代に入っていると感じます。昔だったら、美しい文体で生活を描けば誰かが批評してくれましたが、今はそうした批評が成立しにくく、作品自体に批評性を含ませる必要がある。これはモダニズムやポストモダンの作家たちが試みたことでもあり、現在の自己言及的な作品の増加にもつながっていると思います。
特に女性作家による自己言及的な小説が増えている中で、今回の作品もその流れにあります。ただ、特異なのは、女性作家の自傳的要素をセクシュアリティ的に異なる視点から描いたという点で、「他者性」や「当事者性」への文学的挑戦とも言えると思います。批評家としてはそう捉えていますが、実際に書き始めたときは、按という存在が自然に女の子として現れ、隣にはウェンディがいた。だから、そのまま書くしかなかった、というのが正直なところです。
6.大切なものを言葉に代えて
齊藤
震災を経験された東北、現在の福岡という土地との関係……物語には九州の地名も登場しますが、鈴木さんご自身の空間的な移動や土地の記憶は、小説の空間描写に影響しているのでしょうか。
鈴木
今回の作品には、自分自身の東から西への移動経験が重なっている部分もありますが、物語の年代設定はアンネに寄せています。彼女の移動や時代背景に合わせつつ、自分の経験も反映させ、舞台を福岡にしたり、福島をつくばに置き換えたりと、少しずらして描いています。完全に一致させると僕自身の自傳になってしまうので、自傳的な要素はフィクションとして昇華させることを意識しました。震災による移動経験が、文学への共感の鍵になっていて、「故郷喪失者」の文学に強く惹かれるのもそのためです。そうした人々の「何かをコンパクトに持ち運びたい」という欲望が、「携帯遺産」というテーマ、「携帯財産」という言葉の背景にもつながっていると感じています。
齊藤
実体としての故郷にすがれないからこそ、人は言葉を拠り所にし、何らかの表現手段を求めるのではないかと感じました。
鈴木
まさにその通りだと思います。フーコーの『言葉と物』(新潮社)という有名な本がありますが、言葉には実体との乖離があっても、確かな力があります。清少納言が好きなものを並べたように、紙の上に世界を献上する行為は、言葉の本質を示しています。
思い出すのは、戦争で街を失った詩人が、街の記憶を箇条書きにして持ち出したという話です。僕も福島から福岡に移ったとき、小説を書くことで記憶を言葉に留めました。最初は「世界のリスト
―― 自分だけの辞書(マイ・ワールド・ディクショナリー)
―― 」を作るような感覚でした。それでは誰にも読んでもらえない。だからこそ、他者に読んでもらうためには物語として構造やリズムを持たせる必要があると気づき、それが僕の文学的な歩みにつながっています。
齊藤
『ゲーテ』の中で統一が「人々がやることは結局、自分なりの全集を編むことでしかない」と語っていますが、それとつながるなと思いました。
鈴木
福島を離れたとき、本当に大切なものだけをバッグに詰めて逃げたという実体験があり、その感覚が「全集を編む」ということや「携帯財産を作る」といった行為に深く結びついています。またそういう行為は、故郷を喪失した人間にとって、非常に切実で実存する問題だと感じています。もちろん、それがすべての人に当てはまるとは限らないという問いもあります。今回の作品でも、按の行動が他者に理解されず否定される場面があり、そうした他者性や否定こそが文学の出発点だと感じています。
大切なものを言葉に代えて持ち運ぶという純粋な欲望は美しい詩や物語を生みますが、文学となるには他者との関係性が不可欠です。『人にはどれほどの本がいるか』『ゲーテ』『携帯遺産』の三部作は、同じ主題を異なる角度から掘り下げてきたという自覚があります。
齊藤
書くことが人にとってどういうものなのかということと、書いたものが読まれることによって初めて成り立つ、完成するということがあるのかなと思いました。
鈴木
そうですね。デビュー作『人にはどれほどの本がいるか』の段階では、書いて終わり。『ゲーテ』の時は書くけど言葉が信じられなくなって不安になったときに、ひとつの言葉だけが信じられるようになった、そういう終わり方でした。『携帯遺産』はさらに進んで、“携帯財産”を作ったり、言葉を信じたりするだけでなくそれが他者に読まれ、他者とどう分かち合えるかどうかが大切だというところまで進んできたという感じはあります。自分の作品を批評するのも難しいですが、そう思いますね。
齊藤
三部作の意味がとても理解できました。
7.文学は「遊び」という余白

齊藤
これまで多くの本を読まれてきた鈴木さんが、今の大学生におすすめするとしたら、どんな本を紹介されますか。
鈴木
おすすめの本を聞かれると、いつも「聖書」と答えます。文学を読むうえで、聖書の内容を知っていると、多くの作品が格段に理解しやすくなります。聖書は、文学の扉として非常に優れた役割を果たしてくれると思います。
学部時代にもたくさんの本を読みましたが、「聖書」以外でおすすめするとしたら、大学に入る前に読んでおいて本当によかったと思う、ヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』(中公文庫)です。「ホモ・ルーデンス」とは「遊ぶ人」という意味で、この本は自分の人生観の核にある一冊です。
一般に「遊び」は軽んじられがちですが、ホイジンガは「遊びこそが文化の根本にある」と説いています。彼の著書は、東洋・西洋を問わず、政治や宗教、詩などの領域にも遊びが深くかかわっていると語られています。日本でも「遊ぶ」は高貴な人の動詞として使われてきました。この本を読むと、遊びに意味があると感じられ、遊んでばかりいる自分にも肯定的な視点を与えてくれる、そんな一冊です。
齊藤
鈴木さんには「遊んでばかり」というイメージが全くありませんでしたが。
鈴木
「小説を書く」という行為も、広い意味での「遊び」であり、真剣に向き合う価値のあるものです。タモリさんの「仕事は適当に、遊びは真剣に」という言葉のように、遊びこそが本気で取り組む対象なのかもしれません。ホイジンガは文化の根本に遊びがあると説き、社会の歯車にも「遊び=余白」が必要だと言っています。文学もその余白として機能し、社会を滑らかに動かすために不可欠な存在です。だからこそ、文学は役に立つのです。
齊藤
文学は歯車じゃなくて遊び
―― 大切な気づきですね。
鈴木
それがなければ、社会の歯車も動かない。ただ、一方で、平野啓一郎さんは「文学が遊びとして機能することで、社会が変わらずに続いてしまう」という問題を指摘しています。文学が現実逃避の手段となり、変革を妨げる可能性もあるという視点には一理あります。とはいえ、日々多くのことを抱えて生きる中で、ほんの少しの息抜きとして文学に触れることが、生きる支えになるという側面もあります。だからこそ、文学は「遊び」であり、人生に必要な余白なのだと思います。
齊藤
文学がもつ希望的な要素ってとても大事だと思っています。私は「よく生きよう」という読後感のある本が好きです。明日もっとよくできる、と思える本。それは確かにガス抜きでもあるけれど、現状は肯定していないですね。
鈴木
確かに。
齊藤
文学には、残酷さや悲しみを描きながらも、どこかに「希望」があると思います。それは、文学に関わる人たちが、本が長い時間をかけて受け継がれてきたことを知っているからこそ、自然と希望を感じているのではないでしょうか。鈴木さんの作品にも、言葉の奥に希望があり、それこそが文学の力だと改めて感じました。
鈴木
やはり一番正しい読み方だし、そういうような本を書いていきたいですね。
(取材日:2025年7月10日 リモートにて)
鈴木結生さんからのメッセージ

サイン本プレゼント!
新潮社/定価1,760円(税込)
鈴木結生さんのお話はいかがでしたか。
鈴木さんの著書『携帯遺産』(朝日新聞出版)のサイン本を5名の方にプレゼントします。
下記Webサイトから感想と必要事項をご記入の上、ご応募ください。
応募締め切りは
2025年11月30日まで。
当選の発表はサイン本の発送をもってかえさせていただきます。
プレゼント応募はこちら
対談を終えて
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齊藤ゆずか
鈴木さんの作品にふれると、読むことの喜びを存分に味わえるのはなぜなのか、その答えが垣間見えた対談でした。文学を専門にしたことのない自分が、作品や文学について語り合うことがこんなにも楽しいと思えたのは、鈴木さんの誠実で豊かな言葉のおかげです。「知らないことを知るための読書」を今後も続けていきたいと思います。そしてこの記事を読んでくれているすべての方に何度でも、『携帯遺産』をおすすめしたいです。
P r o f i l e
撮影:上田 泰世
鈴木結生(すずき・ゆうい)
2001年福岡県生まれ。福島県郡山市出身。福岡県在住。西南学院大学大学院在籍。小説家。1歳で福島県に移り住み11歳まで過ごす。2024年、「人にはどれほどの本がいるか」で第10回林芙美子文学賞佳作を受賞。『ゲーテはすべてを言った』(朝日新聞出版)で第172回芥川賞を受賞。最新作は、『携帯遺産』(朝日新聞出版)。
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