わが大学の先生と語る
「テクスト、何に支えさせる?」平手 友彦(広島大学)

テクスト、何に支えさせる? インタビュー

 平手先生の推薦図書


P r o f i l e

平手 友彦 (ひらて・ともひこ)
1960年生まれ、愛知県出身。広島大学大学院総合科学研究科教授。
1984年愛知県立大学外国語学部フランス科卒業、1988年岡山大学大学院文学研究科修士課程(仏文学)修了、1992年トゥール大学ルネサンス高等研究所DEA専門研究課程修了、1994年大阪大学大学院言語文化研究科博士後期課程(言語文化学)単位取得退学。1998年広島大学総合科学部助教授を経て2014年4月より現職。専門はフランスルネサンス文学・文化論、テクスト文化論。博士(言語文化学)。

■主な著書・共著・論文
「「グリセルダ物語」再考 ─Anthoine Vérardの出版戦略をめぐって─」(共著『シュンポシオン 高岡幸一教授退職記念論文集』朝日出版社、2006)、「テクストと読書の文化史」(共編著『21世紀の教養5 知の根源を問う』培風館、2008)、「エラスムス計画からボローニャ・プロセスあるいはエラスミスム─知識基盤経済の中の高等教育」(共編著『世界の高等教育の改革と教養教育─フンボルトの悪夢』丸善出版、2016)、論文「フランソワ1世治下のパリのブルジョワ日記(前・後)」(『欧米文化研究』、2009-2010)、映画論として「『二十四時間の情事』Hiroshima mon amourのトラベリング ─トポスとしてのヒロシマ、記憶と忘却 ─」(『フランス文学』、2017)。
  • 杉田 佳凜
    (大学院M1)
  • 久保 真理奈
    (総合科学部3年)

 

1.テクストはニュートラルに伝えられない

杉田
 先生の研究内容から教えてください。

平手
 僕の専門はフランス文学のなかでも16世紀、ルネサンス前半だったのですが、その時代の先進国イタリアに関心を持ったり、ちょうど活版印刷が広がっていく時代なので、本(テクスト)がどのように社会のなかに伝わっていくのかという出版文化にも興味を持つようになりました。

杉田
 先生の授業での「テクストはニュートラルな状態で伝えられることはない」という言葉がすごく印象的でした。ここでも説明していただけますか。

平手
 たとえば本のテクストなら紙の上に印刷されて伝わっていくし、その前はパピルスや石、粘土に書かれたり刻まれたりして人に伝わっていきました。つまりテクストは中空に浮かんでいる文字列ではなくて、必ず何かの「支え」に乗せられて読まれる。支えがある限りそこに依存するので「ニュートラルではない」ということになります。
 一番分かりやすい例は、今みんなスマートフォンで読んだり書いたりするでしょ。あれだとスクリーンが小さいので長い文章は書かない。書きにくいし読みにくいから。そうするとだんだん短い文章で、インパクトのある言葉を選ぶようになってきます。こうした電子化の流れは、今までのテクストや支えの歴史を見ると急激な変化ですね。

杉田
 レポートもスマホで書く人がいますね。よくあんな狭いところで書けるなと思いますが。

平手
 僕も不思議に思います。でもそれをやっている人にとっては当たり前なのね。思考自体がその支えに慣れてテクストを紡ぎ出していくから。

久保
 同じレポートでも、スマホとパソコンでは変わってくるという考えですか。

平手
 変わってくるだろうね。スクリーンの大きさの問題もあるから。それに万年筆で書いて字が綺麗・汚いとか、同じ内容をパソコンで打ってレイアウトを整えたりすれば読んだときの印象が違う。内容は同じでも。

杉田
「ニュートラルではない」ことが制約になるとは限らないみたいですね。たとえば字が汚い人は、スクリーンを選ぶことで手書きの制約から逃れることができるのかなと。

平手
 もちろん選択できるということもあるね。今は選択の幅が広がっているし、相手に合わせて使い分けることもできる。でも、いずれにしてもニュートラルではないということです。

 

 

2.電子化とテクストの転換

杉田
 電子化のお話が出ましたが、それ以前の大きな転換点を挙げるとしたら何ですか。

平手
 まず文字の発生があるけれど、書物の形態でいえば、巻物から冊子(コデックス)になったことが大きな転換だと思う。冊子の前、パピルスは植物でできていて、折ると割れてしまうから巻いていた。これがだいたい紀元前3千年から紀元後4、5世紀まで続いて、紀元後2世紀ぐらいになって冊子の形の本が出てきます。
 これが大きな転換点なのは、巻物だと両手を使って広げなければいけなかったけれど、冊子だったら片手で読むこともできるし、読んでるところや読みたいところを全体の中で把握できるようになる。この変化は大きくて冊子コデックス革命といわれています。

杉田
 授業で「スクロール」の語源は「巻物」だという話がありましたが、「革命」を重ねて巻物に戻ったのは変な感じがしますね。

平手
 まさにそのとおりです。巻物に戻るということは、見ているところが限定されているということ。全体を見渡せない。冊子ならパラパラと見渡せるし、ページ付けや章立てで全体を構造化することもできます。

久保
 電子書籍のお話も伺いたいのですが、これからどうなっていくと思われますか。

平手
 多分、使い分けていくんじゃないかな。

杉田
 先生もそうされているのですか?

平手
 電子書籍はほとんど活用していないですね。Kindleにはいろいろ入れていますが、そんなに読まない。やっぱり読みにくい。膨大な量のテクストを紙で持ち運べないときにはそれで読むこともありますが。
 徐々に電子テクストの方が優位になってくるかもしれないけれど、紙の安心感だとか、貴重ということで所有感を得たいテクストはあると思います。

久保
 今の小学生が教科書代わりにタブレットを使っているように、最初から電子で育てば紙でなくなることへの違和感はないのかなと思ってしまうのですが。

平手
 それはあるかもしれない。でも新聞だとか図書館の本だとか日常的に触れる機会がある限り、そのテクストが貴重であれば、紙で所有したいという感覚を持てると思います。

 

 

3.いい文章に触れる

久保
 先生は普段どういう本を読まれますか。

平手
 研究以外なら日本の近現代文学。好きなのは漱石と谷崎。あとは福永武彦、中村真一郎、加藤周一の三人と石川淳。もっと新しいところ(?)だと松本清張。彼の初期の短編はキレがあって面白いですね。他には、水村美苗とか。彼女には漱石の遺作で未完の『明暗』を、漱石に似せた文体で完成させた『續明暗』という作品があって、これがとても面白い。
 いつも僕は学生に、近現代の日本人が書いた文章、良い文章を読むべきだと言っているけれど、加藤周一の『羊の歌』と『続羊の歌』は特に薦めます。大学生には是非読んでもらいたい。『続羊の歌』の方が加藤のフランス留学のことが書かれていて、比較的読みやすいからそちらから読むといいですね。

杉田
 なぜ近代なのですか。単に古典ならもっと遡れますよね。

平手
 やっぱり近現代の日本語の美しさが理由かな。古典だとまた違う意味で古い日本語の良さになってしまう。近現代の読みごたえのある、美しく、正確な、そういった文章にできるだけ接していい日本語を味わってもらいたい。現代の作家は日本語が十分に練られていないと思います。軽すぎて、あまり面白くない。

杉田
『草枕』を読んだときに、文章として心地がいいなと感じました。

平手
 漱石の文は読み心地がいいですよね。そういった文章に何度も接すると、それが自分の文章にも影響を与えます。いい文章を味わうこと、これがやっぱり人生を楽しむということに繋がってくるのではないかと思います。
 

 

4.テクストの在り方

久保
 読書離れが話題となって長いですが、学生を見ていてその傾向は感じられますか。

平手
 はい。まず読書量がないと話についてこられない。僕も広島大学に来て20年程経っているけれど、昔の学生の方がまだ読んでいたと思います。といっても、皆さんはあの頃の学生に比べるとはるかに多くのテクストに触れていると思います。だって携帯電話やスマホで毎日読むでしょ?長い本は読んでいなくても、テクストはたくさん読んでいる。

久保
 本とネットの文章では違うのですか。

平手
 違うと思います。ただ、今は本の文章もネットに引きずられて短く、読みやすく軽いものが増えてきているんじゃないかな。新書も昔の岩波新書に比べるとずいぶん読みやすくなった。分析はしていないけれど、多分レイアウトも活字も徐々に読みやすいように工夫されてきていると思います。ネット上のテクスト、電子テクストをやはり意識しているのではないでしょうか。
 

 

5.クリティカルとクリエイティブ

杉田
 最後に大学生にメッセージをお願いします。

平手
 そうですね、大切なのは自分を揺さぶる怖さを持っているものを見つけること。そして、それを大事に持っておくことですね。本や映画の中で、よく分からないけれど面白いってことあるでしょ。すぐには分からなくて明らかにできない。けれど、これには大きな意味があるなというもの。それをとりあえず持っておく。どこかでもう一度それに触れたり、考えたりする機会があると、見えてくることがある。だから、いろいろなものに触れて、自分を揺さぶってくれる、大切なものをたくさん増やしていくと良いと思います。
 そして、批判していくことも必要ですね。批判的にものを見ていくことで、それが自分にとって本当に大切なもの、自分を揺さぶるものなのかが見えてくる。また、批判的に──クリティカルに見ることによって、クリエイティブなものが生まれる。逆の言い方をすると、クリエイティブなものを生み出したいのなら批判的に見ないと絶対にできない。クリティカルに見ることでクリエイティブになるし、クリエイティブなものを作りたいなら必ずクリティカルに見る必要がある。
 画家が一生懸命に模写をするのは、同じように描こうとして、どのように描いているかを盗み取ろうとしているわけで、それはクリティカルに見ているということでしょ。そういう練習をしていくなかで、自分のスタイルやヴィジョンが見えてくる。それは論文でもなんでもそうだと思います。自分が読みたいテクストを味わうことも大切ですが、やっぱりそれに対していろいろな見方でクリティカルに見ていくと、次のものが生まれてくると思いますね。自分を揺さぶるものをクリティカルに発見していく。そうすると豊かな大学生活と人生を送ることができるのではないかなと勝手に思っています。
 
(収録日:2018年4月2日)

 


対談を終えて

 学部四年間のなかで三本の指に入るお気に入り授業「テクスト文化論」から二年越し、平手先生のお話をまた聞くことができて嬉しかったです! 普段何気なく“本"と呼んだり、“本"とは区別して考えていた“書かれたもの"を、どう捉えるかというお話にわくわくしました。「読む」ときに紙にこだわっていても、「書く」ときにスクリーンを使っていればテクストは電子化されていると気づかされ、また考えたいことが増えました。
(杉田佳凜)
 

 このインタビューを通じて、先生のご専門に関して・その他もろもろ、好奇心をそそられるお話をたくさん聞けてとても新鮮で、たのしかったです。インタビューの後、今まで全く意識したことがなかったテクストと媒体の関係・あり方について考えさせられ、電子機器の誕生により様々なものの在り方に変化が起きており、再考の余地あるものがどんどん出てきているのだなと考えさせられました。貴重なお時間ありがとうございました。

(久保真理奈)

 

コラム

先生と映画と
「本」ってなんだ?
地中海で人生を変えろ!

先生と映画と

久保
 映画好きの先生にとって、いい映画とはどういうものですか。

平手
 観ている人を揺さぶる映画ですね。感動もそのうちの一つで、「感動できる映画」とよくいいますが、観る前にそこまで決めつけるのは面白くない。もっといろいろなものが映画のなかにはあるし、「泣ける、感動できる」というのは物語ばかりに意識が向いているわけで、それだったら小説でいい。映画は映像が動いているところが大切で面白いところ。そこを味わっていかないといけない。
 映画は、物語はもちんのこと、カット、編集、音などで一つの世界を作っているから、それをしっかりと作りあげているかどうかが肝要だと思う。キューブリックやゴダール、タルコフスキー、小津の作品はそういうことが間違いなくできていて、映像を見ているだけでこちらが満足できる。あれだけ映画を突き詰めて完全な世界を提示してくるキューブリックは哲学者だと思うよ。

久保
 自分は映画通ではないので、物語を中心に映画を観て評価するのですが、先生は監督の映画世界の見せ方といったところで評価されるのですか。

平手
 それはもちろん。映画はそうだと思います。監督がすべてです。
 基本的に僕は悲劇しか認めないから、主人公は物語の中で死んでほしい。そういう悲劇を観て僕たちは生きる力をもらう。本も映画もそう、自分が生きているところとは違うものをいろいろ見せてくれるでしょ。本に関しては外国文学もすらすら読んで味わうことができればいいけれど、それは難しいから日本のものを読む。でも映画ならあらゆる世界を観ることができるよね。時代も場所も。
 いい映画を観て、感じて、考えてみることが面白い。なんで自分がこんなふうにその映画で揺さぶられているのか。絵画も同じだし、街を歩くときもそうかもしれないけれど、なんでそんなふうに自分が感じているのかを考えることが、とても重要ではないかと思います。
 

「本」ってなんだ?

杉田
「本が好き」と言うとき、私はだいたい小説のことを言いますが、学術書を出されても「違う」とは思わない。なので自分が思っている「本」とは冊子の形のことだと思うのですが、巻物が本だという時代があったり、今は画面やその奥にあるデータも本になると思うと、本って何だろうと思います。

平手
 それは「本」を支えと一体化して考えているということだよね。

杉田
 そうです。形の問題として。

平手
 そこから離れて「テクスト」から考えた方が整理しやすいかもしれない。つまり伝えたいメッセージと、それを支えの上に乗せて伝えるものが「本」。冊子の形が今まで当たり前だったけれど、「スクリーン」もスクリーンという支えの上に文字列が乗って伝達が行われているわけで、同じように考えられると思う。

杉田
 たとえば同じ論文が論文集にまとまったり、PDFで公開されたり、冊子の形のものもそうではない可能性があると思うと納得できます。

平手
 テクストと支えという関係で考えていくと整理ができるという感じかな。
 

地中海で人生を変えろ!

平手
 大学3年の夏休みに2ヶ月間、イタリアに行ったのね。知り合いの知り合いの知り合い(要するに「知り合い」ではない)から「遊びに来て大理石工場で働かないか」という甘い誘いがあって往復の航空券だけ買って行った。
 アパルトマンの一室を貸してもらって、毎日朝7時に工場に行き、夕方5時に終わると、それからトリノの街に繰り出して、帰ってくるのが夜中の2時。それまでいろいろなところで食べたり飲んだりしてパワフルだった。
 世話してくれたのは日本人で、僕が大学院生になってフランスに留学していたときも、お金がなくなって、結局1ヶ月お世話になった。その時はミケランジェロが大理石を切り出していたカッラーラという街だったけれどね。研究はフランスをやっているけどイタリアの方がいいですね。
 やっぱり海外に行くことは大きいと思います。1週間とかではなくて、最低1、2ヶ月。行くのならラテンだね。地中海が人生を変えるかもしれない。僕はあそこで変わったよ。それまではもっと暗くて、ねちこくって、生真面目な人間だったけれど、イタリアの2ヶ月間で完全に人が変わった。イタリア仕様になったんだね。
 

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