わが大学の先生と語る
「小説でもSFでもなんでも哲学」信太 光郎(東北学院大学)

小説でもSFでもなんでも哲学 インタビュー

 信太先生の推薦図書


P r o f i l e

信太 光郎 (しだ・みつお)
1969年生まれ、秋田県出身
東北学院大学教養学部准教授。
1994 年東京大学理学系研究科人類学専攻修士課程修了、2009年東北大学文学研究科文化科学専攻博士課程後期3年課程修了。2013年東北大学文学研究科助教を経て、2014年より現職。専門は哲学。

■主な著書・共訳書
『死すべきものの自由─ハイデガーの生命の思考』(信太光郎/東北大学出版会)、『存在と人間』(オイゲン・フィング<座小田豊・信太光郎・池田 準=訳>/法政大学出版局)
  • 母里 真奈美
    (教養学部4年)
  • 大峯 春奈
    (教養学部3年)

 

1.きっかけは一冊の本との出会い

大峯
先生は学生時代から哲学に興味をもっていましたか。

信太
実は私は学生を二回やっていまして、一回目は哲学に全く興味がなかったのです。

母里
全く興味がなかった哲学をやりたいと思ったきっかけは何でしたか。

信太
当時、私は生物学科で自然人類学を学んでいました。それは人類の進化や人類集団の構造を自然科学的に考える学問でした。元々「人間とは何か」という問いに興味があり、それを研究できるのが生物学(人類学)だろうと思って進学したのです。しかし、しばらくすると、どうも自分の期待とは違うようだと気づきました。このまま研究を続けようかどうしようかと悩んでいた時に、ある一冊の本に出会ったのです。

大峯
それはどんな本ですか。

信太
たまたま大学生協でみかけた、木田元さんの『ハイデガーの思想』(岩波新書)という小さな本です。その本を何気なく手にとって読んでみたときに、自分のやりたかったのは、もしかしたら哲学なのかもしれないと気づき、初めて哲学書を読んでみようと思ったのです。中でもハイデガーの『存在と時間』という本にぜひチャレンジしてみようと。結論をいうと、読んでみて非常に面白いと感じました。私はそこで、自分の問いは哲学的なものだったと分かりまして、もう一度大学に入り勉強しようと思いました。それが二回目の学生生活になるわけです。

母里
その新書に出会っていなかったら哲学に進んでいないかもしれないですね。

信太
そうなのです。仮に生協でその本の前を素通りしていたら、今の私はなかったかもしれません。本との出会いは運の要素がかなり強いと思います。だからちょっと面白そうだなと思ったとき、また人から勧められたとき、とりあえず手にとってみて、さらには、読まないまでも買っておくことをみなさんにもおすすめします。いま研究室に置いてある本は、実は読みきれていないものがたくさんあるのです。でも少しでも気になったものはなるべく買っておきます。あの本と出会わなかったならば、という思いから、いまでも本との出会いは大切にしています。

 

 

2.ゼミでSFを読む理由

母里
ゼミでSFを使うのはなぜですか。


信太
まず小説(フィクション)を読む楽しみを味わってほしいという気持ちが根本にありました。実は私自身が本当に面白いと思う本は、例えばドストエフスキーやトルストイ、あるいはトーマス・マンといった、近代小説の文豪たちの古典です。彼らの小説から受ける感動は明らかに深さと重さが一段違います。でも本を読み慣れていない今の学生たちには少しハードルが高いので、何かきっかけを与えたいと。SF なら映画やアニメになっている作品も多く、学生もとっつきやすく、共に面白さを語り合えると思ったのです。しかしSF を扱うもっと根本の理由は、SF は「人間」について考えるのに向いていると思ったからです。みなさんは「人間とは何か」と考えることありますか。

母里
漫画や小説とかで「人間とは何か」という含みがあるストーリーの場合など、考えることがあると思います。


信太
フィクションには確かにそういう問いを背景にもったものが多いですね。日常生活で私たちは、「人間とは何か」なんてふつう考えたりはしません。しかし例えばSF の中では、作者は人間を極端な状況の中に置くことがあります。そのとき、普段は気づかなかった人間の本質が浮かび上がってくることがある。ゼミではいまアイザック・アシモフの『われはロボット』(ハヤカワ文庫)を読んでいますが、その中で、技術が進歩してロボットと人間との区別がつかなくなった時代の話があります。そこでロボットがこう言うのです。「決して嘘をついたり悪事を働いたりしない(そのように作られている)私以上の『理想的な人間』はいますか」と。すると人間たちは困惑してしまいます。私たちはそこで、「人間らしい」とはどういうことか、嘘を絶対につかないことは本当に「人間らしい」ことか、と考えるわけです。フィクションはこうして人間を日常的な現実から遠ざけることによって、私たちに「人間とは何か」という問いに向き合わせてくれるのです。

大峯
人間から離れて「人間とは何か」を考えるためにSF を選んだのですね。

信太
最初はフィクションで本当に哲学なんてできるのかなと半信半疑でしたが、やっていくとなかなか面白い。中でもSF は、人間について考えたいという私たちの根本の欲求に直接訴えるものをもっているように思われます。人々がSF を面白いと感じるのは、やはりそれだけの理由があるのだと思います。

 

 

3.読書は少しずつ息長く

大峯
先生の一日について教えてください。

信太
仕事を終えたらまっすぐ家に帰るという一日の終え方がもったいなくて、学生の時から続けている習慣があります。それはぜひ学生のみなさんにもおすすめしたい。

母里
どんな習慣ですか。

信太
帰りにどこか喫茶店に寄って、必ず30 分だけ読書をすることです。本は読まなければと思って読むと辛くなるので、30 分だけです。学生時代からずっと続けています。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』やトーマス・マンの『魔の山』のような長編小説も、そうやって読みました。私の読書の記憶はコーヒーの香りがします。

大峯
素敵ですね。どこのお店に行きますか。

信太
最近はスターバックスが多いです。学生のときはミスタードーナツでしたね。コーヒーがおかわりできますので。

母里
ドーナツを食べながらなら、家で読むより好きかもしれないです。

信太
本当は机に向かって背筋を伸ばして読むほうがいいし、実際に研究のための専門書はそうして読みますけど、楽しみのために読む小説の場合は、喫茶店の雰囲気が向いている気がします。

大峯
1日30 分だとちょっとずつですね。

信太
文庫本で10 頁か15 頁読めば終わりですね。先が気になってもあえて止めることにしてます。そうすることで息長く読み続けることができます。不思議なもので、こうした読み方をしていると、どんなに長い小説でも苦だと思うことがありません。

母里
長編をよく読まれますか。


信太
長編に限らず短編も大好きですので、推薦図書では短編をあげています。内田百閒とシュティフターという私の偏愛する作家の作品で、どちらも珠玉のような短編です。ただ最近私はある究極に長い小説を読み始めたところなのです。プルーストの『失われた時を求めて』(光文社古典新訳文庫)です。いまその1冊目を読んでいますが、全巻合わせると一体いつ読み終わるだろうかという分量です。もしこれを学生時代に課題図書なんかにされたらどうだったでしょうか。いまはだれから急かされるわけでもないので、ゆっくり読みすすめるつもりです。

母里
読書が続けやすい習慣で参考になります。

信太
たくさん読まなければと思うとプレッシャーですけれど、少しずつ着実に読むというのを続けてみてください。これはダイエットにも通じる極意かもしれませんね。

 

 

4.哲学は好き嫌いをしない

母里
先生のもとで卒論を書く学生はアニメやファッションなど、テーマ選びが多種多様ですが、先生はどんな分野のテーマでも受け入れますか。

信太
何であれ、好き嫌いしないことが哲学の重要な役割だと思っています。たとえ全く不得手な分野でも、とにかく食いついてみようと。ある学生が『エヴァンゲリオン』で卒論を書きたいと言ってきたので、遅まきながらDVD を全部観ました。食わず嫌いしてきたジブリ作品もいずれ観るかもしれません。

母里
ジブリをやりたい学生は絶対いますよ。

信太
そのときはもちろん付き合いますが、ただ別の方に誘導するかもしれません。こっちのほうがもっと面白いよと言って。でもとりあえず何でも食いついて、そこに問いを見つけることが哲学というものかなと。

大峯
扱う分野が多いと大変な気もしますが。

信太
でもそれが本来の哲学の姿です。例えばハイデガー研究やカント研究など、過去の哲学者の学説を研究するお堅いものもありますが、SF の哲学、ファッションの哲学なども、実は立派な哲学になりうるのです。だから学生に対しては、どんなテーマでも一緒に考えてみましょうというスタンスで接しています。その際、ジブリも悪くないですが、どうせならもっと他人が手をつけていないところを攻めて欲しいなという思いもあります。母里さんならどんな哲学のテーマを思いつきますか。

母里
江戸川乱歩が好きなので江戸川乱歩で卒論を書きたいと思っていますが、これは哲学の問いになるでしょうか。

信太
怪奇小説を通して哲学的な問いを立てるとしたら、例えば恐怖や不安とは何かというテーマが浮かびます。実はそれはハイデガーも論じているのです。こうして意外な方向から刺激を与えてくれるのが学生たちのいいところです。ですから私はこれからもポジティブな雑食主義でいきたいと考えています。

母里
そんな雑食な先生から最後に、学生に一言お願いします。

信太
月並みな言い方ですが、読書は人生を豊かにします。騙されたと思って、特に古典作品を手にとってみてください。私たち教師も自分の学生時代を振り返り、まだ感受性が豊かだったうちにもっと読んでおけばよかったという思いから学生のみなさんに語っているのです。ぜひ古典の世界に触れて、その面白さに驚いてもらいたいです。読み継がれているのには理由があることが分かるでしょう。
 
(収録日:2018年6月27日)

 


対談を終えて

信太先生が読書好きなことは以前から知っていましたが、今回の対談を通して想像以上の本への深い愛に圧倒されました。私も負けてられませんね。どんなものでもとりあえず触れてみる、哲学という言葉のもつ意味の広さから哲学に限らずに、とりあえずなんでも興味をもつことが大事だと教えていただいた気分です。最後に、対談をご快諾いただいた信太先生と一緒にインタビューを支えてくれた大峯さんに感謝したいです。ありがとうございました。
(母里真奈美)
 

先生の普段見れない部分を知ることができ、楽しい対談でした。研究のきっかけや読書の習慣など、授業やゼミを受けるだけでは聞けない話が多く聞けました。もとは理系の学生だったというのには驚きました。本との出会いや学生時代に読む本の大切さなどの話を聞き、これからもっと多く、色々な本を読んでみようと思いました。また、普段読まない古典の本にも挑戦してみようと思いました。貴重なお時間ありがとうございました。

(大峯春奈)

 

コラム

人工知能と人間
学生時代の読書
古典の新しさ

人工知能と人間

母里
先生は人間とアンドロイドの区別がつかなくなる未来は来ると思いますか。

信太
そういう未来は遅かれ早かれ来るでしょうね。ですが問題は来るかどうかではなくて、そのような状況は何を意味するかを理解することです。その状況はもしかしたら、私たちのほうも人工知能的なものにますます近づいていくということではないでしょうか。例えば、あたかも人工知能とコミュニケーションがとれるかのように錯覚できるのは、裏返せば、私たちがふだんから人工知能的に言葉を使い、人工知能的にものを考えてしまっているということです。ハイデガーは、人工知能やアンドロイドという語こそ使っていませんが、人間はそれに近い存在になっていくと考えていました。平均的に同じことを考え、平均的に同じことを面白いと思うような、中性的な「ひと」が世界の主体になると。それは近代の「人間」概念の必然的な帰結であると。「人間もどき(アンドロイド)」を相手にして、私たちが真剣に「人間とは何か」を考えるべき時代が来つつあるということですね。

 

学生時代の読書

母里
学生時代はどのような本を読まれていましたか。

信太
僕は理系の学生でいながらどこか文学青年的なところもありました。そのとき読んだ作品の感動は、周りの光景までよみがえるぐらい印象深く覚えていますね。そうするとやはり、読書にも適齢ってあるんだなとつくづく感じます。歳をとって理屈っぽくなったら、本当の意味では本は読めなくなります。いくら数を読んでも、若い時にうけた感動には届きません。若い時の迷いや飢えみたいなものが、読書という行為には大切なのかもしれません。私の学生時代も、自分の本当にやりたいことは何だろうと、片方は自然科学、もう片方は文学と、どちらにも足をかけて迷っていて、結局それを両方満足させてくれたのが哲学だったのだなといまでは思っています。だから哲学の授業で積極的にフィクションを扱うことは、私にとって本質的な意味があります。

 

古典の新しさ

大峯
現代の小説は読まれますか。

信太
現代の小説も時間をつくって読みたいと思っています。私が読んだ中で一番新しい時代のものは村上春樹ですが、学生さんにとってはもう新しくはないかもしれませんね。最新作は読めていませんが、代表作をほぼ読みました。村上春樹で卒論を書きたい学生が来ても準備万端です。

母里
先生はやはり古典がお好きですか。

信太
はい。古典の面白さにますます気づかされています。そこでみなさんにぜひ声を大にして言いたいことは、古典だからと甘くみるなかれ、古典こそ「新しい」ということです。私はいつも学生に、ドストエフスキーって半端ないぞ、トーマス・マンは切れ切れだぞ、さらに時代をさかのぼって、ギリシア悲劇にいたっては今だと放送禁止レベルだぞ、といった感じで、彼らの興味を掻き立てるように努めています。

大峯
学生を誘惑しちゃうのですね。

信太
その時、中途半端に古いものより、うんと古いものだとかえって分かってもらえるかもしれません。例えば『2001 年宇宙の旅』や『オデッセイ』というSF 映画があったでしょう。両方とも原型はホメロスの『オデュッセイア』という叙事詩で、約3000 年前に作られたものです。決して近年のオリジナルではないのです。しかしこのことを裏返せば、最近の作品の場合でも、現在の視点からだけで読むのでなく、古典の長い歴史のなかにちゃんと位置づけるのであれば、どんな作品でも、たとえばTVゲームのようなものであっても、しっかりと議論の素材にすることができるだろうと思います。村上春樹が想像していたよりもずっとおもしろかったのは、その作品には古典の下敷きがあるのが感じられたからでした。

母里
古典作品を読んでいると、ちょっとこれは長いし、難しいなとなる時があります。それでも読み終わった時の達成感が違うなとも思いますね。

信太
最初はかったるいと思うかもしれません。しかし。歯ごたえがあるということは、腹持ちがいいということでもあります。古典は私たちの精神に持続的な栄養を与えてくれているのです。

 

「わが大学の先生と語る」記事一覧


ご意見・ご感想はこちらから

*本サイト記事・写真・イラストの無断転載を禁じます。

ページの先頭へ