倉本 敬司
(法学部3年)
杉田 佳凜
(卒業生)
倉本
先生は何がきっかけで現在の専門分野に興味を持たれたのですか?
大池
元々はアメリカ文学が研究テーマでした。普通に英文科で、修士号まではアメリカ文学の作家で論文を書いたんです。ちょうどそのころ小文字で複数の「english literatures」(イギリスとアメリカだけでなく、オーストラリアやカリブ諸国やアフリカ諸国やインドやマレーシア等、世界で「英語で書かれた文学」も対象にしようという動き)が出てきたときで、それがきっかけのひとつです。そのころ、イギリスに住んでいるインド系作家のサルマン・ラシュディなどの作家も売れたりしていて、文学がすごく動いた時期でした。
もうひとつは非常にパーソナルな理由です。当時、今の夫となる人とつきあっていたのですが、彼がガーナ人なんです。ちょうど博士の後期に上がる年に結婚したのですが、「結婚することになったし、アフリカ文学も英文学の枠でやれるようになっているのだったら、作品が面白ければアフリカ文学に変えよう」と思って、それで読んだら面白かったので。
杉田
ちなみにそのとき読んだ作品は?
大池
そのとき読んだのはブチ・エメチェタというナイジェリアの女性作家の作品です。その当時のアメリカのポストモダン文学は「これ以上なにを書いたらいいの?」という問いで書かれたようなジャンルだったんです。そういう閉塞感がない、書くべきものも書かれていないものもまだたくさんある、といった勢いがあるところに惹かれて、アフリカ文学にしました。
ジェンダーに関しては、学部のころはフェミニズムの「フェ」の字も知りませんでした。修士で文学理論としてフェミニズムを勉強しましたが、修士論文ではジェンダー視点は入れず、博士後期でブチ・エメチェタ中心に変えて、「アフリカとジェンダー」という視点で分析するようになりました。博士号をとって、すぐに広島大学で「ジェンダー学と英語を教えられる人」という謎の募集があって。そのときに「女性作家論じゃなく、ジェンダーそのものについて考えさせる授業をやって」と言われたんです。そのときは全然ストックがなかったんですけど、学生と授業で試行錯誤しながら、ジェンダーへの関心を先鋭化していきました。
杉田
今はジェンダーの中でも特にセクシュアリティに関心を持たれているということですか。
大池
今の自分の専門は、アフリカ文学でのセクシュアリティの表象です。特に女同士の関係で、どういうふうに身体性というものが表象されているのか。いわゆるベタなレズビアンフィクションに限らず、一般的な小説の中で、身体性というものがどのように女性同士の関係の中でできているのか。母と娘だったり、妻同士だったり、一夫多妻の妻同士でそこに子どもがいて……という関係が描かれていたりするので面白いなと。
倉本
身体性の話は、推薦図書で挙げていただいたアチェベの『崩れゆく絆』の4章でも出てきたと思います。一番若い第三の妻が夫に怒られて、一番上の妻がその子どもたちをかくまってかばう場面。そういうのが女性の連帯ですか。
大池
私が読んでいる作品では、より身体的な親密さが描かれます。それこそ、年上の第二夫人がいて、自分は若い第四夫人。第四夫人は母との関係がうまくいっていなくて、年上の第二夫人に母親的なものを求めていて。第二夫人自身は子どもができずに孤独を感じていて。母と娘のようなつながりがあるんですが、そこにはもっと性的に微妙な関係が、アチェベよりもっとフィジカルに性的な関係を結び……結んでいるかな、でもこれって関係というより弾みかな、でも描写が非常に生々しい、という作品があったり。
杉田
文学の話をもう少し聞きたいです。アフリカ文学ならではというのは、どういう部分ですか。日本や他の国の文学との比較から探っていくのでしょうか。
大池
母性に対する、非常に肯定的なフィロソフィみたいなものですかね。それが社会をかなり強く支配、浸透している感じです。ある理論家が、例えば女性の腰の動き、丸く円を描く動きが、ダンスのなかにも出てきて、寿がれていると論じています。西洋の感覚だと、ペニスを挿入する。しかしアフリカの感覚だと、ヴァギナがペニスをつつみこむ。巨大でたおやかな、命を生み出す力を称揚しているわけです。
「ザ・アフリカ」みたいな感じで今言いましたが、その評論家は、ヨルバというナイジェリアの民族グループの文化を例に分析しています。そういう、みずみずしくジューシーな生気が満ち溢れるような感覚は、確実にある。滴る身体性のようなものが文学の場合はかなり象徴的な感じで出てくるので、そこはアフリカならではのものがあるかなと思います。
杉田
読んでみないとなんとも……。読んでみたくなりました。
大池
アフリカに足を踏み入れると、自然が沸騰している感じ、芽が出ているような感覚を覚えます。あの大地のみずみずしさです。それを母的なものとして、認識している。
杉田
それは現代の作品にも共通していますか。
大池
出ていると思います。さっき言ったような性的なシーンの描写でも、その描写の前に夫にレイプまがいに性行為をされて、夫が立ち去ったあとに自分の身体に精液の乾いたヒリヒリした感覚が残ったという描写があります。それに対して、女性同士の関係の中では、母乳がほとばしって、もっとやわらかくじっとりしたような感覚の描写になっています。言葉で説明するのは難しいですけど。
倉本
確かに西洋や日本では「父なるもの」の存在がテーマにされることの方が多いような気がします。アチェベは、西洋に教化されてるなと思いました。主人公が、かなり父の影にしばられていて、エディプスコンプレックスですよね。
大池
はい。ただ、作中の挿話に「耳と蚊」の話があります。蚊が耳に求愛するのですが、耳は「あんた、いったいいつまで生きてるつもりなの!」と大爆笑。以来、蚊は耳のそばで、生きていることをアピールすべくぶんぶん音を立てる、という民話です。でっかい耳はヴァギナで、か細い蚊の針がペニスであるという分析もあります。なので、こういった伝統的な身体性も少しずつ入ってはいるんです。
アチェベは優秀な作家なので、意識していなくても、物語を語る過程で、普段みんなが意識化していないことがサブプロットとして話に入っていくのでしょう。アチェベ自身は、アフリカの伝統的な女性性はきっと意識していないと思います。1958年当時、アフリカの物語を世界に出すときに「アフリカにも西洋に匹敵する素晴らしい物語があるんだよ」という感じで出していて、当然、父と息子と伝統と近代化の物語なわけ。
学生とダイバーシティ研究センターで行ったLGBT+漫画展
杉田
一旦研究の外の話をうかがいます。啓発活動をされていますよね。昨年末に大学が発表した「性の多様性に関する理念と対応ガイドラインーLGBT等の学生の修学のために」の策定にも関わられているのでしょうか。
大池
私が座長で案を作るワーキングを立ち上げました。他にアクセシビリティセンター、ハラスメント相談室、保健管理センターから造詣の深い先生に入ってもらいました。そこにトランスジェンダーの元学生にも入ってもらって、案を作っていきました。ただ、ガイドラインだけでは不十分で、啓発しないとどうしようもないので、啓発活動も同時にやり、パンフレットなども作ってという形です。
杉田
中心になって作られたのですね。実施がこのタイミングになったのはどうしてですか。
大池
いくつかの大学で既にこういうガイドラインが出ています。それで広島大でもやらないといけないだろうと思っていたときに、今言った3部署が色々対応していたんですが、どこも「必要だとは思うけど、自分が中心になって旗を振るのはちょっと」という感じでした。現場で事例に接してはいるし、ガイドラインは作らないといけないけど、現場はルーティーンの仕事でいっぱいいっぱいなんです。
そのときダイバーシティセンターができて、私が2018年にセンター長になった。その年の終わりごろに、ワーキングを立ち上げました。それで2019年の終わりにガイドラインが出ているでしょう。「じゃあここはうちが旗をふるしかないだろう」ということで、よく知っている先生に話をして、やろうよと。 。
倉本
「LGBTの人たちを助けよう」というと、その態度自体にやや差別を感じます。多様性の考え方はそうじゃないということを、広める意図があるのでしょうか。
大池
狭い意味での福祉は、社会のやり方があってみんなで合意してやっていて、でもそれだとこぼれる人がいるからサポートして「この人をこのへんにいられるようにしよう」というもの。社会のやり方自体は手付かずです。でもそれではだめで、そもそもこぼれる人が出ないように、一人一人のニーズや状況にちゃんとよりそって社会を作りなおさなければならない。男女共同参画社会基本法には、本来そういうフィロソフィがあります。私たちがガイドラインで目指したのも、「困っているからパッチあてよう」ではなく「わたしたちひとりひとりが違うよね、セクシュアリティはわたしたちの問題だよ」という意識を、大学の構成員が共有することです。
倉本
その違いはかなり重要ですよね。
大池
ただし、セクシュアリティはわたしたちの問題だけど、日々切迫して困っている人はやはり当事者なので、ガイドライン自体は当事者に向けたものになります。理念のところで「性の多様性を尊重します」と、目指すべきところを謳っています。
杉田
読書のことをうかがいます。先生は研究以外で本を読まれたりしますか。
大池
研究以外で読むものは、あえて言うなら警察小説かな。初めて読んだとき「こんなジャンルがあったのか!」と思いました。朝日新聞で連載していた小説が面白くて、それを書いている作家が警察小説ジャンルの人だったんです。
で、その人の警察小説を読んでみたら、ストーリーテリングとしては面白い。でもゴリゴリの男組織で共感は全くできない。男性論として一度論じてみたいという意味では、研究の一部ですが。それが研究とは一番違う読み物かもしれません。
倉本
他は研究にかぶってきますか。
大池
そうですね。大学教員は、絞り込んだ自分の専門があるとしても、求められていることはかなり多いので、本に関して研究に入らないものはないんですよ。今はダイバーシティ研究センター長でもあるので、仕事に全く関係ないものって、ないと思います。
杉田
読んでいて「面白いけどポリコレ的にどうなんだ」という作品があって。最初面白いと思ったのに途中で「うっ」てなると、悩むことがときどきあるんです。先生はそういうとき、どうバランスをとられますか。
大池
面白そうで読んでみたいけど「うっ」てなる作品はありますよ。『ONE PIECE』は読んでみたいけど、あまりにもおっぱいが強調されたキャラクターとかが出てくると、絵でどうしても入ってくるから、ストーリーを味わう前に弾かれてしまいます。
倉本
巨乳は、女性からしてどうなんだとは思います。
大池
でも『ONE PIECE』はエロ漫画じゃないじゃん。非常によく売れている質の高い漫画だろうけど、自分は入っていけない。『FAIRY TAIL』も、息子が友達から借りてきたので私も読んだらドン引きしたんです。扉絵が、ほとんどポルノと同じ図だったりして。「これ小学生に読ませる? 社会はこういう風にトレーニングするんだなぁ」と思いました。規制しろというわけではないのですが、自然化されているのは問題だと思います。リテラシーを育むってことかな。
杉田
私は中高生の頃に少年向けライトノベルでかなり自然化されて、そういうものと思うようになりました。当時読んでいたライトノベルには、イラストやシーンなど過激なものが多かったと思います。それがメインでなくても。自分がターゲット層ではないからと無関心で流しているうちに、子どもが手に取れるところに扇情的な女性のイラストがあることに慣れてしまったのが、危ないと思います。でも、ストーリーが面白いし作品自体に思い入れがあるから、完全に規制すべきと言われると作品が悪者にされているみたいで嫌だなとも思います。
倉本
ジェンダーや性の多様性を考えるとき、自分の身近な体験に引き付けられないと問題意識を持ちにくいし、理解しにくいと思います。そこで、ひとりひとりがどんな意識を持てば、多様性を受け入れてよりよい社会を作っていくことができると思いますか。
大池
他人事じゃなくて「自分事意識」ですね。例えば「今までLGBTの人に会ったことがない」と言うけれど、必ず会っているはずです。その人と十分に出会えていないということだと思います。だとしても、手記を読むと「こういう風に感じるのか」とわかると思います。「こういう風に感じているのか。感じさせているのか」と。
それを感じさせているのは、私たち一人ひとりが内面化している社会の仕組みです。性別二元論と言ってもいい。そこからもろに排除されている人もいれば、それをもろに内面化して自然化している人もいます。多くの人が後者なので、自然化の部分を可視化してくれるのが、もろに排除されているマイノリティの人たちなんですね。手記などを読むと、もう少し自分のこととして、捉えられるようになります。
倉本
「他者への想像力」がキーワードでしょうか。
大池
他者に耳をかたむけることによって「他者の問題じゃない、自分の問題だ」と気づくことができます。自分の中にも、多様性があるのに、それを殺しているわけです。それは小さい頃からマンガ等でトレーニングされてしまっているから気づきにくいですが、気づいていけば、全くそこに縛られない生き方はできなくても、注意し、距離を置くことはできるようになるはずです。より自分が分かるようになると思います
杉田・倉本
今日は、ありがとうございました。
大池
(男性が女性の容姿を)論評するのは嫌ですよね。
杉田
私は論評されないことがコンプレックスで、妙な拗らせ方をしています。
大池
女っていうのにグルーピングして、土俵に挙げない人を除外して、その中でランキングをつけるような。
倉本
論評しながら、みんなどこか「これ言ったらやばいな」という感覚を持ち合わせながらしゃべっているのを感じます。巧妙に隠蔽しながら、やっているのかな。逆に自分がそうされたらと考えると嫌ですけどね。
大池
前に「飲み会のときどう対処しているか」を女性の先生と話したんです。男性教員同士が「あの女子学生かわいい」とか「女優の△△に似ている」と言ったりしているときに、女性教員が「俳優の○○さん素敵ですよね!」と言うと、男性教員は結構黙る、と言っていましたよ。
杉田
それは、男も評価される側になるし、俳優やアイドルと自分は比べるまでもないといった感じで黙る?
大池
たぶん、それではじめて「自分たちは不愉快なことをしていたんだな」とわかるんだと思います。
大池
男女の枠みたいなものが、人間関係をしばっていると私は思っています。ぱっと見たときに「男か女か」で分けて、「年ごろで募集中」と思われる人をピックアップして、ターゲットとして見る。候補者として絞り込んでいき、話したり付き合ったりする。そういうふうにすることで、人間関係の目標としている「型」にすごくしばられて、その「型」を実演することが人と関係する目標になってしまう。「実演できる自分」というのを目指しちゃうんです。でもそういう「型」や「目標」がなければ、フラットに人と向き合って「この人はどんな人だろう? 何に興味があるんだろう?」というところを探っていって、一致したら掘っていく、一致しなかったら「ここは合わないね、でもここは合うね」と自由に関係を作れる気がする。でもそれがなんか、狭まっているような気がして。
倉本
(相手が)フラットな関係を望むのであれば、そうなんですが。でも意識していないけど、どこか自分は男だという部分から脱出できない。僕一人が「脱出したい」と思ったからといって脱出できないし。もやもやします。
大池
この前ウガンダでワークショップがあったんです。二週間の合宿で。私なんかは向こうに行くと、20代〜30代くらいに見られるんです。ポテンシャルな女性ターゲットとして(笑)。指輪もしないので独身だと思われて、候補者として処遇されるんです。アプローチされて、その人個人のことは、「面白そうだから話したいな。興味があるな」と私も思うんです。でも彼にとっては、私と関係を深めるのは「時間の浪費」でしかないんですよ。二週間しかないから。仕方ないけど、でもそれは寂しい。その「目標」がなければ、もっといろんな人と、その人も話ができたはず。関係が紡げたはずなんです。
杉田
時間が有限である以上、その人が友達より恋人がほしいなら仕方ないのかな……。
大池
人間関係って、それだけ?
倉本
ある意味で日本は緩いですが、他方アメリカの映画などは「そこまでやるかポリコレ」みたいなのがあるような気がしていて。その辺りは何か思われることありますか。
僕が一番思ったのは『美女と野獣』の舞踏会のシーンで黒人が踊っているところです。あれはヨーロッパの話でしょ。そこでポリコレだから黒人も白人も出すというのは、正直違和感を感じます。それは平等なのかなと。
大池
「なんちゃってポリコレ」だから。「言われたから置いておきましょう」って対応なんです。
本来なら「なぜ今まで黒人キャラがいなかったんだろう? 物語の紡ぎ方は、どうして最初からその人がいないことで作ってきたんだろう? その人がいる状態で作りなおすとしたらどうなるんだろう?」と考えることが必要だと思うんです。「ちょっと入れました」みたいなアリバイ工作だから、違和感があるんだと思いますよ。
本当にいい作品だったら違和感はなくなるはずです。下手に入れているから違和感として出てきてしまう。そういうキャラクターを入れて物語のスケールが増したり、良くなっているのならいいけど、そうじゃければ意味がないですよね。少なくとも物語が良くなってない。
倉本
確かにそうですね。
大池
良くならなきゃだめですよ。良くなるはずなんです。多様な視点になるわけだから、ちゃんと入れれば、より現実に近くなるはずで、ダイナミックな物語になるはずなんですよ。
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