東京経済大学2年 内田 充俊
12月
ファッションと文章は似ている。
下手な人ほど、ゴテゴテと飾り立てる。ファッションも文章も壊滅的な我が身を振り返るに、自信の無さが過剰な装飾に駆り立てるのだろう。
例えばファッションなら腰からチェーンをジャラジャラとぶら下げて、孔雀のように派手な色の服を重ねる。文章なら比喩や形容詞、擬音語のオンパレードで形容過剰となる。
その「過剰」の精神の対極が、短歌だ。五・七・五・七・七の三十一文字のなかに想いをぎゅっと詰め込むのだから。まるでダイヤモンドの周りを研磨して輝きを放つが如く、無駄が削ぎ落とされて凝縮された言葉たちは白黒印刷なのに輝いて見える。
12月に読んだ本は、そんな短歌カテゴリから2冊。穂村弘『
求愛瞳孔反射』(河出文庫)と、穂村弘『
本当は違うんだ日記』(集英社文庫)。前者は「恋をしているある瞬間、僕たちの瞳は不思議な輝きを放つ」というエピグラムからはじめる、恋愛をテーマとした短歌集。後者は短歌作家、穂村さんの視点から日常を切り取ったエッセイ集。ふだん言葉を彫琢している詩人の視点は、ナイフのように鋭い。
1月
食べ物に賞味期限があるように、本にも賞味期限がある。
苺パフェと乾パンの賞味期限の長さは10年以上違うように、本の賞味期限も一様ではない。けれど確かにいつか「おわり」があるという点で共通点がある。
読まれなくなった本は絶版になり、断裁され、失われていく。平成20年には年間2億冊が廃棄処分されたという。
そんな中で、50年100年の時の試練を経ても読まれ続けている、不死鳥のような本を、我々は古典と呼ぶ。
1月に読んだ本はそんな古典の中から2冊。カミュ『
ペスト』(宮崎嶺雄=訳、新潮文庫)とショーペンハウアー『
読書について』(鈴木芳子=訳、光文社古典新訳文庫)。前者は14世紀の感染症を描写した文学として、コロナ禍を類比的に捉える視点を提供してくれる。後者は乱読を諫める読書論だ。
ところで村上春樹『
ノルウェイの森』(講談社文庫)にて、知的な東大生の永沢さんは「俺は出版されて50年が経った本しか読まない。はずれの本を読んで貴重な時間を無駄にしたくないからな」と嘯く。今回紹介した2冊も「貴重な時間を無駄にしない」こと請け合いだ。