座・対談
「見えない文脈にこそ、面白さがある」穂村 弘さん(歌人)

見えない文脈にこそ、面白さがある


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1.架空の現在

杉田
 『水中翼船炎上中』(講談社)は17 年ぶりの歌集なんですよね。歌集の主体である「私」のイメージが『シンジケート』や『ドライ ドライ アイス』(ともに沖積舎)とは大きく違う印象を受けました。何が反映した結果なのでしょうか。それとも、意識的に変えたというわけではないのでしょうか。

穂村
 『水中翼船炎上中』は「これは日本だな」「昭和何年頃だな」「ここに出てくる『私』は昭和何年くらいの生まれの人だろうな」のような、時空間の特定ができますよね。『シンジケート』の頃はもっと漠然と無国籍のような感じというか。時空間を特定できるかできないかの違いが大きいのかもしれません。

杉田
 歌集全体のテーマが「時間」になったことで、立ち位置が明確になったということでしょうか。

穂村
 どっちが先かわからないけどね。「若い」と「若くない」は非対称的な出来事だと思っていて。若い人は自分に未来があるということを知っているのだけれど、「時間がある」ということの感覚が本当にはつかめていないですよね。一方それが終わってしまった後の人にとっては、たとえば40 歳になると「20 年を2回生きた」ということがわかるんです。「20 年を3回生きると60 歳で、4回生きると80 歳で、その次はもうないな」みたいな感覚。でも20 歳の人は、その20 年だけでは尺度化できなくて「40 歳」はわからないと思う。自分はわかりませんでした。昔ノストラダムスの大予言が流行って、それによると、僕は1999 年に36 歳で死ぬ予定だったんです。当時高校生だった僕は「36歳なら大体いいかな。一通り済んでいるだろうし」と思っていたけど、感覚的に大間違いで、実際に36 歳になってみると、まだ何も済んでいるどころではありませんでした。そういう時間感覚が変わったことが『水中翼船炎上中』に反映されているのかもしれません。

杉田
 その感覚はどのあたりで変わりましたか。

穂村
 今言ったような意味で40 歳くらいになったときに「一通り済んだ感」は全くなかったし、今現在もそう。これはどうやらタイプがあるみたいで、以前、谷川俊太郎さんとお話ししていたときに「寺山修司は最後まで『死ぬ』ということにピンときていなかったのでは」とおっしゃっていたことがあったんです。僕も寺山修司の作風を見ると、そんな気がするんですよね。それはつまり「自分が永遠に生きる」みたいな錯覚から抜け出せない人間がいるということなんです。若い人はみんなその錯覚の中にいると思うのですが、年をとってもそこから抜け出しにくいタイプの人がいて、自分もそうではないかと。だから逆に時空間を特定して、なおかつその上に「永遠に生きる」という感覚を乗せるとどうなるのか……ということを今回試してみました。

杉田
 『水中翼船炎上中』に収められている歌の「現在」には幅があって、「2018 年の現在」ともちょっと違うのかなと思いました。

穂村
 そこにあるのは、自分がコントロールしている「偽物の現在」なんですよね。実際には「現在」といっても25 年くらいの幅のある歌が並んでいて、どちらも「現在」。それをやると本来はデコボコして見えるはずなんだけど、そう感じさせないように作るというか。例えば『水中翼船炎上中』に収めてある、「電車のなかでもセックスをせよ戦争へゆくのはきっと君たちだから」という歌は「現在」で歌っているけど、実際にこれを作ったのは10 年くらい前なんです。その時点では「戦争」という言葉は今ほど臨場感はありませんでした。それが勝手にそこに置かれることで見え方が変わっているんですよね。

杉田
 穂村さんのエッセイを読んだときに世間的な時間の流れと穂村さんの年代が擦り合わさっていないような感覚を覚えたのですが、架空の現在というか、「圧縮された現在」ということで、納得できました。

穂村
 確かにそうなんだけど、そこまできっちりしたフレームがあるわけではないんです。例えば僕が結婚したのは42 歳。昭和の感覚だと遅いけど、現代では40 代で結婚する人は珍しくありません。短歌はリアルな体感ベースに書いているけど、例えば、「それぞれの夜の終わりにセロファンを肛門に貼る少年少女」は、蟯虫検査の歌なんです。蟯虫検査って僕らのときはやっていたけど、今はやっていない。だから経験がある人は「これは蟯虫検査のことを言っているんだな」とわかるけど、経験がない人にとっては異常な歌と感じるかもしれないですよね。それは「蟯虫検査」という言葉を、わざわざ隠しているから。短歌って、そういうところがあるんです。これは技巧としてはフィクションではないけど、「蟯虫検査」という言葉を入れないことで表現された世界が異化されて異様な感じになる。そういう時代感というか、普段は意識されないけどニュースとかになって初めて意識されるようなものを入れてみました。

 

 

2.現実と現実ではないもの

杉田
 『現実入門』(光文社文庫)などのエッセイを読んで、違和感の対象である現実でうまくやっていくことにも憧れのような感覚があるのかなという印象を受けました。穂村さんは「現実」と「現実ではないもの」を何で区切っているのでしょうか。

穂村
 現実のために奉仕しない言葉は何かというと、「それまで一度も見たことがない言葉の組み合わせ」のことだと思うんですね。例えば「水中翼船炎上中」は、「水の中で翼が燃える」みたいな字面になる。でも現実には水中翼船という乗り物は存在するし、それが火事になることはありうるから、「水中翼船炎上中」という事象は現実にもありうる。その言葉だけを見た時に、「水中で翼が炎上している」というのは非現実な感じがしますよね。僕にとって現実と離れた非現実はないけど、現実の中に今我々が信じているものとは違う文脈があるのではないかと思っています。
 
 

杉田
 「現実」という一つの文脈があって、そこから離れるということですか。

穂村
 一つと言って良いのかわからないけどね。みんなが好きな文脈とかマジョリティが受け入れやすい文脈というものがありますよね。「感動ものが嫌だ」という感受性もみんな持っていると思うけど、それは人を感動に追い込むための文脈が世の中にはあるから、それが逆に嫌悪感を与えてしまう。文脈の方を信じてしまうということは、あるんじゃないかな。そういうものからはかけ離れたものの方がいいのかなと思っています。

杉田
 「驚異」と「共感」もそこにつながってきますか。

穂村
 そうですね。「共感」は現状の文脈を補強するものという意味だから、人は基本的にそういうものに共感するんですよね。だから全ての共感は現状維持を強化する。それに対して「驚異」は自分の中の文脈を破壊して更新するベクトルを持っていて、詩は基本的にそちらに寄って行くものなんですよね。歳をとるほど、自分の文脈を更新されても困るというような感じになってきます。単純についていけないこともあるし、過去の自分の時間みたいなものがゆらぐような気持ちになるからかもしれませんね。

 

 

3.書き方の作法

杉田
 歌論や私が以前参加させていただいたシンポジウムでのお話から、「異化」という言葉が穂村さんの中でキーワードになっているのではないかと思いました。短歌の形式が持っている異化効果とは、どのようなものだと考えられていますか。

穂村
 異化の前提にあるのは文脈なんですよね。さっきの例で言うと「蟯虫検査」という文脈。読者の中には、それを知っている人と知らない人がいますよね。あるとき突然「セロファンを肛門に貼る」という奇妙な言葉の連なりを見せられて「自分はそれを知らないけど、背後になにかあるかもしれない」そう感じさせるのが詩の機能だと思うんです。少し話が飛躍するように感じるかもしれませんが、全ての文脈を知っているのは神。人間は神ではないから、文脈のすべてを見通すことはできません。短歌や詩はそのことに関わって存在していて、どこかで垂直方向の神に向かって書いているというところがあると思っているんです。文脈が見えないときに面白いと感じる人が好むものというか。

杉田
 エッセイに関しても「等身大の異化」という言いまわしをされていたと思います。文脈の制限というのは短歌以外でも意識されていますか。

穂村
 制限は常にあるんじゃないかな。『きっとあの人は眠っているんだよ』(河出書房新社)は読書日記ですが、読書日記にこういうタイトルをつけることは普通あまりないですよね。これを読んだとき文脈は見えない人がほとんどだと思いますが、この連なりに不穏なものがあると感じる人がいて「『あの人』は死んでいるのでは?」と思ったりする。中を読むとわかりますが、これは僕が考えたフレーズではなくてセバスチアン・ジャプリゾの『新車のなかの女』というミステリーに出てくる一節なんですよ。『新車のなかの女』は、主人公の女性が車に乗って南フランスを旅しているときに奇妙な事件に遭うお話です。主人公がとある小さな子どもと知り合って喋っているときに、突然子どもが「あのおじさんは、どうしてあんなところにいるの。おじさんがお姉さんの車のトランクにいるよ。きっとあの人は眠っているんだよ」と言うシーンがあるんです。そして主人公がトランクを開けると、そこに死体がある。このシーンは、小説の本筋だけを追うなら、なくても良いんですよね。主人公がトランクを開ければそこに死体があるというのはわかるわけですから、わざわざ会話させる理由が散文的にはありません。でも、だからこそ僕はこの作品が好きなんです。これは韻文領域に踏み込んでいるんじゃないかな。「子どもは死を知らなくて眠りと死の区別がつかない。でもじゃあ我々が死を知っているのかというと、死んだことはないわけだから本当には知らない。ということは子どもと変わらないのではないか」というのが背後にあると思っているんですよね。という理屈はともかくとしても、ロマンチックですよね。僕は小説の本筋よりも、そういう部分にものすごく興味を持ってしまうし、自分でもそこを書きたい。

杉田
 『短歌という爆弾』(小学館文庫)の冒頭で、穂村さんが小学生の時、本を読むことで世界のエッセンスを手に入れようとしたけどできなかったというようなことを書かれていましたが、現在に至るまでに穂村さんご自身に何か変化はありましたか。

穂村
 あまり変化していなくて、ある本の中にそのにおいを強く感じるものを読むし、世界の秘密に近づいていると思われる一行を書きたい。だから僕の読書日記は引用がすごく多くて、どこの部分を引用するかがすべてなんですね。『新車のなかの女』の冒頭は「わたしはまだ海を見たことがない」、それから「わたしは、海を見た人々を嫌っていた。見てない人も大嫌いだった」というフレーズがある。これは世界中の人が嫌いという意味だけど、直接的にそう書いていないですよね。その書き方の作法の中に、「触れることができない何か」があると思っているんです。

杉田
 小学生のときにエッセンスにたどり着けなかったのは、「そこだ」と掴む力がまだ足りなかったということなのでしょうか。

穂村
 それもあるし、子どものときはもっと、ある一行を読んだ時に決定的に世界が変わるようなものを求めていたんですよね。今もどこかでそういうものを求めてはいるけど、現実的にそれは難しい。だからそれを求める感覚はベースにあるけど、その匂いとはどういうものなのかというのを探して、かつ引用して、それについて書く、みたいなことなのかな。

杉田
 穂村さんが短歌を作られるときにも、決定的に変わる何かを目指しているということですか。

穂村
 そういう感覚が大元にあると思います。でも「ちょっとおもしろいことが言ってみたい」みたいなときも多いですね(笑)。

杉田
 穂村さんは、短歌はどのような感じで作られるのですか。生活の中で思いついたものを書き留めていくような感じでしょうか。

穂村
 全然思いつかないからすごく困るんです(笑)。なかなか作れません。だからとりあえず何でも良いから十首とか二十首とかひどいものも含めていっぱい書いていると、三十首目くらいから多少マシになってきます。で、その後またダメになる。だから前と後ろを切って、真ん中の多少マシなところを残します。そういう作業を繰り返していくんです。

杉田
 雑誌の連作なども、一気に作って真ん中を残したものを繋ぎ合わせているのですか。

穂村
 わりとそうですね。最初の方は自分の考えとか思っていることがそのまま出てしまって、自分の意識通りのことを書いてしまいます。それが、書いているうちにだんだん言葉の方が勝手に活動し始めて、普段の自分の世界観や意識が置いていかれるんです。そのゾーンが多少マシなところ。で、また言葉が疲れてくると自分の意識が言葉に追いついてしまいます。


 
 
P r o f i l e

穂村 弘(ほむら・ひろし)
1962年、北海道生まれ。歌人。
1990年、歌集『シンジケート』でデビュー。その後、短歌のみならず、評論、エッセイ、絵本、翻訳など幅広い分野で活躍中。2008年、短歌評論集『短歌の友人』で第19回伊藤整文学賞、連作『楽しい一日』で第44回短歌研究賞を受賞。2017年『鳥肌が』で第33回講談社エッセイ賞を受賞。
 
■主な著書
主な著書─歌集に『ドライ ドライ アイス』(沖積舎)、『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』(小学館文庫)、『ラインマーカーズ』(小学館)。他に、『世界音痴』(小学館文庫)、『整形前夜』(講談社文庫)、『蚊がいる』『短歌ください』(以上、角川文庫)、『野良猫を尊敬した日』(講談社)など著書多数。最新の歌集として『水中翼船炎上中』(講談社)がある。

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