座・対談
「『世界』をつなぐ読書」柳 広司さん(小説家)

「世界」をつなぐ読書


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1.『二度読んだ本を三度読む』

杉田
 『二度読んだ本を三度読む』(岩波新書)を読ませていただきました。

 


 ありがとうございます。いささかショッキングな告白から始めさせて頂くと、この本はもともと読書エッセイや書評集ではなく、一冊のフィクション──いわば疑似私小説として、柳広司が今までにどんな読書を通じて社会を見てきたのか、今どのように見ているのか、というのを書いたつもりなんです。
 イメージしたのは太宰治の『津軽』ですね。『津軽』では太宰が故郷を訪ねて行って彼の乳母である「たけ」という女性に会い、そこでの彼女との会話がクライマックスになっています。非常に良くできた、心洗われる感動作に仕上がっています。ところが、研究者などによると、実際には太宰とたけさんはほとんど会話をしていないらしい。でも太宰の中では、こういう作品でなければならなかったわけで、ある意味疑似私小説風の書き方をしているんですね。私もそういうのをやってみたいと思ったんです。
 前作の『風神雷神』(講談社)では、安土桃山から江戸時代初期に生きた謎の絵師、俵屋宗達が描いた何枚かの絵を通じて、宗達自身とその時代を書きました。その執筆中に他社から「次は現代小説を書きましょう」と言われたんです。じゃあ読んできた小説を通じて書こうと。それらの小説を各章のテーマに持ってきたら面白いのではないかと思って。それで『二度読んだ本を三度読む』の一章に当たる『月と六ペンス』を書いて持って行ったのですが、出版社が求めているイメージと違っていたらしく、あっさり断られました(笑)。仕方がないので、当時次に声をかけてくれていた岩波書店に執筆意図を隠蔽した形で「エッセイ風の作品でどうでしょう?」と持ち込んで、それで書き始めたのがこの『二度読んだ本を三度読む』でした。

 

杉田
 柳さんは実在する小説をベースにした作品を複数出されていますが、「書きたくなるテーマ」というのはありますか? それとも出版社からの依頼で書くことが多いのでしょうか。

 


 どちらもありますが、職業作家というものは「読まれない言葉をいくら書いても紙屑だ」と、どこかで開き直らなければやっていけないと思っています。デビューしてから数年間は各出版社に打ち合わせにいくときに「こういうテーマで、こういうプロットで、こういう長さの作品なら書けます」というプランを5,6 個ずつ持って行きました。デビュー年に出した『贋作『坊っちゃん』殺人事件』(朝日新聞出版、のちに角川文庫)が業界的に評判が良かったので、出版社からはどうしても「過去の文学作品を取っ掛かりにしたテーマで」という依頼が多かったですね。その場合は自分が好きな作品をもとにしたプランしか出さないので、書きやすいといえば書きやすいですね。傾向として、繰り返し読んだ本である、というのはあるかと思います。

 

杉田
 ちなみに『二度読んだ本を三度読む』に関して、お手本にした作品はありますか。

 


 塚本邦雄さんの『新撰小倉百人一首』ですね。これは定家の『百人一首』の歌人はそのまま別の歌をとりあげながら作家論を展開するというもので、そういうものをお手本にしたいなと。塚本さんにとってこの一冊は短歌論でもあり、己の世界観を書いていくためのとっかかりというか、一冊読めば塚本邦雄の世界観がわかるようになっているんです。『二度読んだ本を三度読む』もそういう本になればいいなと。そしてできれば各作品に、原作オリジナルの空気を入れたいと思い、工夫しました。読んでもらえば気づく部分もあるかと思いますが、各章で文体を変えています。それぞれの作品の内容紹介というよりは、このエッセイを読むと原作の文体の雰囲気もわかるようにしたいと思って書きました。

 

杉田
 文体で作家を認識させるというのが、確かにそうだなと思いました。私は短歌を詠むのですが、普段意識せず作っているものをまとめようとしたときに、「こっちは口語でこっちは文語」など、色々なトーンのものがあってバラバラだと読みにくくてノイズになってしまうと感じたんです。

 


 そうですね。太宰治の『グッド・バイ』も、『斜陽』などとは違うトーンで書かれているので周囲から顔をしかめられたと思います。それでもやりたかったことが作家側にもあるので、その辺は難しいですね。私が読者の立場でも、前回読んでおもしろかったら作家には次も同じようなトーンの作品を期待しますし、それが違った場合にはある種の失望みたいなものを感じることもあります。おそらく出版社も、売れる作品をとなると、同じようなものを立て続けに出すことを求めるのだと思います。私はどちらかというと同じようなものを続けていると飽きるので、「今度は全然違うものをやってみよう」とするのですが、そうすると出版社や担当編集者に顔をしかめられますね(笑)。でも20 年職業作家をやっていれば、その辺のバランスが分かってきます。



 

 

2.小説家=うそつき?


 『柳屋商店開店中』(原書房)では逆に色々なタイプのものを集めて「こんなものもできるし、こんなものもできますよ」みたいな、ある種サンプルを広げて見せる感じになっています。もちろん所々にあとがきをつけたりと、トーンを揃えなくてもトータルの読み物として工夫はしているのですが。

 

杉田
 『柳屋商店開店中』は、エッセイとしての現実への密着度合いはどの程度あるのでしょうか。

 


 小説家のエッセイは基本的にはフィクションですよ。小説家と書いて「うそつき」と読むので(笑)。

 

一同
(笑)。

 


 先日、岩波から出た最新の『定本漱石全集 日記・断片(下)』の月報にエッセイを依頼されたんです。「小説家の日記を読むというのはどういうことなのか」ということについてですね。漱石の日記を読んでいる読者はこの先何が起こるかを知っている。著者だけが先を知っている小説の場合とは逆です。普通はそうなのですが、漱石ともなると日記も一筋縄ではいかない。その辺のことを書いています。

 

杉田
 『二度読んだ本を三度読む』では、好きな作家さんが好きなものや見ている世界を追体験できるのが面白いと思いました。

 


 若い人たちにとっては、古典へのガイドブックになればいいなと思っています。たとえば夏目漱石最大のヒット作『こころ』について、本書ではばっさり斬っています。実際に『こころ』を読み返すと、「面白いじゃないか」という感想もあるんですがエッセイではばっさり斬ってしまった方が面白く読んでもらえると思うので、そうしています。その辺も含めて、エッセイの中でばっさり斬ってしまっている作品なども「そうはいっても面白いじゃん!」という風に読んでもらえるガイドになっていればいいなと思います。業界に対しては「編集者、このくらいは読んできてね」というひとつのボールを投げるような感じでもあります。

 

杉田
 『二度読んだ本を三度読む』の巻末に「主な参考引用言及文献」として、各章で主に紹介している作品以外の小説もたくさん並んでいたのが印象的でした。

 


 そのくらいは読んでいただけたらと(笑)。



 

 

3.世界の混沌を生きるために

杉田
 柳さんが何故本を読むのか、その理由について伺っても良いですか。

 


 私はほとんどしゃべらない子どもでした。親が心配して医者に連れて行ったくらいです。今にして思うと、「他人」とか「世界」といった情報を自分の中でどのように順序立てていったら良いか、よくわからなかったのだと思います。周りの人たちがそれらを何でもないように処理して次々に片づけられているのが不思議で仕方がありませんでした。そんなときにフィクションを読んで、ある種の、世界と付き合うためのモデルケースを提示してもらったんです。おそらく、そこから小説を読み始めたのだと思います。なので、物語が自分にとって有効な「世界の混沌を自分に対して説明してくれるもの」であれば繰り返し読んで、身につけようとしていました。その物語のように自分が動けるようになるためには、登場人物の会話までをも覚えてしまうまで何度も繰り返し読もうと。それで子どものころからずっと、本は繰り返し覚えるまで読んで、延々とノートに書き写していました。「書き写す」というのも自分にとっての、ひとつの読書だと思っています。読書にも一回読んで「面白かった」というものから、自分の中に完全に入れてしまうまで読み込んでいくものまで、色々段階があるのかなと思います。
 自分の中では、本は繰り返し読むのが当たり前だったので、小説家になってから編集者に「どうして何度も同じ本を読むのですか」と訊かれて、「いや、気に入った本は読むだろう! 読まないのか?」と(笑)。
 村上春樹の『ノルウェイの森』に、「僕はよく本を読んだが、沢山本を読むという種類の読書家ではなく、気に入った本を何度も読みかえすことを好んだ。…(中略)…本を何度も読みかえし、ときどき目を閉じて本の香りを胸に吸いこんだ。その本の香りをかぎ、ページに手を触れているだけで、僕は幸せな気持になることができた。」「僕は気が向くと書棚から『グレート・ギャツビイ』をとりだし、出鱈目にページを開き、その部分をひとしきり読むことを習慣にしていたが、ただの一度も失望させられることはなかった。そして一ページとしてつまらないページはなかった。なんて素晴しいんだろうと僕は思った。……」と書かれていて、これを読んで「そうだよね、こうやって読むんだよね」と思いました。もちろん繰り返し読むのは読むに値する本ではあるんですが、逆にどうして一度しか読まないんだろうと思ってしまいます。例えば素敵な音楽だったら一回聴いて「いい曲だったね。じゃあ次にいこう」とはならず「素敵な曲だからもう一回聴こう」となりますよね。それと同じで、私は本を繰り返し読んでいます。

 

杉田
 モデルケースとは、具体的にどういうことなのか教えていただけますか。

 


 私にとって世界というのは情報の集積なんですけど、ちょっと油断すると「混沌」になってしまうんですよ。片栗粉を水で溶いてギュってしなかったら崩れるみたいな。ギュって抑えるためのものが、物語やフィクションなんです。カントが言うように、世界はあるようにあるものを見ているのではなく人間が見たものが世界として認識されるんです。カテゴリ作りのためのある種の道具性というか、そういうものですね。現実への対応の仕方というのは色々あって、その中の一つを物語というものが提示してくれて、そこから自分でパターンをいくつも身につけていったという感じです。そうして自分はこの世界の中でなんとか身を処してきたという感覚があります。私の場合はたまたま小説だったんですが、人によってはそれが音楽だったり写真だったりするのだと思います。逆に私は周りの人たちがどうやって生活しているんだろうと、世界に対する信頼性が根本的に欠けているところがあって、自分でひとつひとつ形を作っていかなくてはならないんですよ。

 

杉田
 私はある意味真逆です。現実逃避というか、別のところに行きたくてフィクションを読んでいました。それでも現実に戻ってこなければいけないことはわかっているんですけど。

 


 「逃避」という表現が適切かはわかりませんが、私にとっても混沌の世界からの離脱という側面もあります。「こことは違う世界」というのを自分で組み立てるためのフィクションということで。そういう意味ではおそらく、この世界は情報が多すぎるんです。混沌にしか見えない。なのでそこに物語の形を当てはめていくと、混沌の世界の中の一部分の、秩序立った情報の世界に自分を置き換えることができる。そういう意味では、物語は混沌である世界から抜け出すための手段や入口でもあるとは言えると思います。

 

杉田
 「それでもここに戻ってこなければならない」「結局ここに戻ってくるための逃避」という感覚が柳さんには強いのでしょうか。私はどちらかというと「旅行」のような感覚で読書をして、そこから戻ったら日常が始まるみたいな感覚なんです。

 


 『二度読んだ本を三度読む』の『ガリヴァー旅行記』の章でも書きましたが、旅行記というのは「戻ってくる」のが前提で、戻ってきたときには、どこかしら出かける前とは違う自分になっているんです。「旅行」のような感覚の読み方でも、物語の世界に「行ってきた」ことでこの現実とより折り合うことが容易になるような自分になっているかもしれないですよ。何らかの変化はしているはずです。



 
P r o f i l e

柳 広司(やなぎ・こうじ)
1967 年生まれ。小説家。
2001 年歴史や文学作品をミステリーと融合させた『贋作「坊っちゃん」殺人事件』(朝日新聞出版)で朝日新人文学賞受賞。09年『ジョーカー・ゲーム』(角川書店)で吉川英治文学新人賞と日本推理作家協会賞長編及び連作短編部門を受賞。著書に『はじまりの島』(創元推理文庫)、『新世界』『トーキョー・プリズン』(ともに角川文庫)、『虎と月』『ロマンス』(ともに文春文庫)、『幻影城市』『怪談』(ともに講談社文庫)、『象は忘れない』(文藝春秋)、『風神雷神』(講談社)などがある。最新刊は『二度読んだ本を三度読む』(岩波新書)。

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