Essay 海外旅行で『人生』を変えよう

特集「文学で世界旅行」記事一覧

秋満 吉彦(NHKエデュケーショナル・シニアプロデューサー)
 

秋満 吉彦 Profile

 なんだか大げさなタイトルだなあと思ったあなた。ちょっと待ってください。読むのをやめないでくださいね。この私が生き証人なのですから。あ、初めてお目にかかります。NHKのEテレで放送中の「100分de名著」という番組を企画・制作しているプロデューサーの秋満です。実は、私、学生時代に海外旅行に行っていなければ、こんな仕事をしていなかったかもしれないんですよ。
 大学院で哲学を学んでいた私が、海外に行ってみたいと思ったきっかけは、ジャン=ポール・サルトルとメルロ=ポンティという二人の哲学者たちの本を読んだことでした。かなり昔の人達なので、みなさんはご存知ないかもしれませんが、戦後のある時期、世界中の知識人たちが(もちろん日本人も含めて)彼らの一挙手一投足を見つめていた時代がありました。それほど巨大な影響力をもった二人だったのです。
 彼らが活躍した場所はパリ。当時、熱に浮かされたように二人の著作を読み漁っていた私は、彼らがものを書き、発言し、議論を続けたパリの空気を肌で感じてみたいと強く願うようになっていました。その動機の裏側には、切実なもうひとつの動機がありました。彼らの思想を更に深く知りたいと大学院に進学したのはいいものの、「自分は何のために研究を続けているのか」「それが自分の将来にとって何の役に立つのか」といったことを悶々と考え始めていた私は、出口が全くみえないドツボにはまっていたのです。
 パリで彼らが生きた場所の空気を吸えば何か糸口がつかめるかも、といった極めて漠然とした直観に導かれ、お金もないのに、ローンを組んでパリ行きを決断。海外旅行が当たり前になっている現在からみれば些細なことと思われるかもしれませんが、それは、平々凡々とした人生を送っていた当時のぼくにとって、生まれて初めて挑んだ大冒険でした。
 そのときのめくるめく体験は、今も忘れることはできません。サルトルたちが闊歩していたサン=ジェルマン=デ=プレ界隈、彼らが通ったというカフェ、メルロ=ポンティが教鞭をとったソルボンヌ大学やコレージュ・ド・フランス……。思い入れのない人にはただの街角にすぎないかもしれませんが、私にとっては、そのひとコマひとコマが胸を熱くさせ、彼らの姿を幻視してしまうような瞬間もありました。著作を通じて、彼らの息吹が体にしみついていたせいかもしれません。
 とりわけ忘れられないのが、サルトルと彼のパートナー、ボーヴォワールが根城にしていた「ドゥ・マゴ」というカフェでの体験。かなりナルシシズムが入っていますが、彼らが熱く議論を交わしたこの場所で、サルトル自身が書いた著作を原書で読んでみたいという夢を実行に移すことにしました。気恥ずかしさを一杯の赤ワインで眠らせ、辞書を引きながら「生けるメルロ=ポンティ」という、サルトルが友人のために捧げた追悼文を読みふけること30分ほど。とんとんと肩を叩かれ驚いて振り向くと、そこには、ほぼ私と同世代の、眼鏡をかけた学生らしきフランス人が立っていました。彼はニコッと笑って自分がもっていた書物を差し出します。そこには、Jean-Paul Sartre “L'Être et le néant "という文字が! そう、それは「存在と無」という邦題のサルトルの主著でした。彼は、私がサルトルの本を読んでいたことに気づき声をかけてくれたのです。私はうれしくて思わず手を差し出しました。フランス語を習いたての私は、なんの言葉も発せませんでしたが、彼と固い握手を交わしました。そこには確かに、国境を越えて、同志のような思いが通っていました。  
秋満吉彦
仕事と人生に活かす「名著力」
第1部(現状打開編)
生産性出版/本体1,500円+税

 彼は、再び席にもどって友人らしき人と熱い議論を始めていました。ほとんど聴き取れないフランス語会話の中で「ソシエテ(社会)!」という言葉だけが何度も耳に飛び込んできました。そうだよな、象牙の塔にこもって訓詁注釈しているだけが哲学じゃない。こんな風に、社会と真剣に向き合おうとする人たちが、カフェで熱く議論を交し合う中で生まれてくるのも哲学なんだ。それを一身で体現していたのがサルトルやメルロ=ポンティたちだったんじゃないか。若者たちの熱い思いが私の魂を揺さぶりました。それは、「社会の只中で哲学することの意味」「哲学研究を自分の人生につないでいくこのとの大事さ」を胸に刻みつけてくれる体験でした。実際に、その後、修士論文で取り組んだ彼らの思想や人生は、本気でこの社会や世界を変えようという気概がこもったものだったのです。
 なんだか青臭い体験で恐縮ですが、これが、私がジャーナリストを志そうと決意したきっかけの一つです。このパリ体験がなければ、テレビ局を就職先に選ぶことはなかったでしょう。パリで植えられた種はやがて大きく芽吹いていきました。50歳になって、とうとう、当のサルトルを取り上げた「100分de名著・実存主義とは何か」という番組まで制作することになったのですから。
NHKテレビテキスト
(100分 de 名著)
サルトル「実存主義とは何か」
NHK出版/本体524円+税
 そこで、みなさんにご提案したいのは、こうした「本への興味」と「海外旅行」を自分なりにつないでみることの効用です。単なる観光やリゾートももちろん楽しいものだと思いますが、読書体験と旅行をつないでいくと、今まで体験したことがなかったような豊かな世界が開かれていくことがあります。私は、その後、何度も海外でこうした人生を変えるような体験を積み重ねてきました。
 さあ、本を一冊携えて、冒険への扉を開いてみましょう。その瞬間から、あなたの人生の軌道が大きく変わっていくかもしれないのですから。
 
P r o f i l e

秋満 吉彦(あきみつ・よしひこ)
1965年生まれ。大分県中津市出身。熊本大学大学院文学研究科修了後、1990年にNHK入局。ディレクター時代に「BSマンガ夜話」「土曜スタジオパーク」「日曜美術館」「小さな旅」等を制作。その後、千葉発地域ドラマ「菜の花ラインに乗りかえて」、「100分de手塚治虫」「100分de日本人論」、「100分de平和論」(ギャラクシー賞奨励賞・放送文化基金賞優秀賞)等をプロデュースした。現在、NHKエデュケーショナルで教養番組「100分de名著」のプロデューサーを担当。著書に『仕事と人生に活かす「名著力」 第1部(現状打開編)・第2部(飛躍編)』(生産性出版)、『「100分de名著」名作セレクション』(共著・文藝春秋)、「狩野永徳の罠」(『立川文学Ⅲ』に収録・けやき出版)がある。

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