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僕は二匹の犬を飼っていました。一匹はコーギー、もう一匹が柴犬。飼っていた、というのは、コーギーのコーちゃんが今年、亡くなったからです。小さい頃は、よく散歩に連れて行き、僕自身も彼と一緒に走り回っていました。散歩から帰ってくると、僕もコーちゃんも長々と昼寝していました。しかし、高校生になり、犬よりも自分のことばかり考えるようになった僕は、コーちゃんと触れ合うことも無くなり、大学生になって上京すると、もうコーちゃんの事は頭の中にすらありませんでした。そんなある日、一本の電話が母から届きました。「コーちゃんが死んじゃった……」電話の向こうの母の声は震えていました。「コーちゃん、気い使いいやから、大好きなご飯も食べんと、でもなーんも言わんかった。別に吠えるとか、そんなこともなかった。ただしおらしくて。それが余計可愛そうで。なんかしてやれへんかったかな……」その時、「しょうがないって。お母さんのせいじゃないやん」と僕は言いました。実を言うと、僕はちっとも悲しくなかったのです。「生きるものは、いつか死ぬ」と冷淡に状況を捉えていました。自分とは縁のない、まさに本の中で描かれた他人の物語のように。
その年の夏、僕は実家に帰りました。僕の頭にはコーちゃんはいません。もう三、四年殆どいないも同然の生活を送っていたのですから。家に帰ると、いつもと変わらぬ生活です。兄は慌ただしく仕事に出かけ、父は偉そうに優しく、母は不必要なほど僕を気遣ってくれます。彼らの生活にも、僕の生活にも、コーちゃんはいません。
ある日、僕は残されたもう一匹におやつをあげました。その犬にとっては、僕は「たまに家に来て、おかしをくれるおじさん」であり、僕も優しさを押し付けていました。「お菓子をやるぞ。嬉しいだろ」と。
コーちゃんがいないことは知っていましたから、一匹分のおかしを持って、僕は犬部屋に行き扉を開けました。すると、もう一匹がしっぽをふって寄ってきました。僕は頭を撫でながらおかしを与えました。そしてふと僕は部屋に目をやりました。
そこにあるのは、寂しすぎる空間、でした。これまで中型犬が二匹で埋めていたスペースを一匹で埋めることになるのですから、当然不自然な空白ができます。しかし、コーちゃんの死を軽く考えていた、いっそないものとしていた僕にとってその空白は青天の霹靂でした。
(ああ……。ほんまにおらんのやな……)
僕はしみじみそう思いました。愛着があるなしなんて関係なく、長年住み慣れた家には誰もが鋭い感覚を持っています。だから、この空白は僕にとってはいやに大きかったし、無視できなかった。
コーちゃんがいないことを、僕が肌身を通して感覚的に理解した瞬間でした。
その空白の前に立ち尽くした後、僕はコーちゃんとの思い出を振り返りました。小さい頃、散歩で走り回った事。普通の犬よりもがめつくえさを食らう元気な姿。僕が帰ると、いつも吠えて、それで撫でてやると嬉しそうにする様子。甘え上手で、気い使いいで、少しガサツな、コーちゃん。
僕はあまり悲しくありませんでした。確かにこみ上げてくるものはありましたが、それよりも強く僕に迫ってくるのは……。
後悔
昔の思い出よりも、何もしなかった最近の僕の愚かさが身に沁みました。もうちょっと、何かしてやれたかもしれない。でも、その後悔を拭うことはできません。僕は確かに何もしてこなかったし、もうコーちゃんはこの世にいないですから……。
僕は思いました。それが犬でも、ウサギでも、鳥でも、あるいは人でも、大切にした方がいい。明日死んでも、自分は後悔しない、そう思えるように。想像してみてください。今近くの生き物が死んだと報告を受け取った時のことを。その時、あなたは胸を張れますか? その死を悔やむのではなく悲しめますか? 他にやらなければならないことも、やりたいことも沢山ある。でも、いつ死ぬか誰にも分からない。
他にやらなければいけないことが沢山あるんだと、言い訳していませんか? 別に自分には関係が無いと、割り切っていませんか? もしそうなら、きっと後悔します。今生きているものは死に、死んだものは生き返らないから。そして、死んだものに償うことはできないから。
だから、ほんの少しだけ優しくなってみませんか? 仕事もあるでしょう、学業もあるでしょう、友達付き合いもあるでしょう。私達は信じられないほど多くの予定に追い立てられています。それでも、その予定たちは死の知らせからあなたを庇ってくれません。目にした空白に、どんな言い訳も通用しません。等身大の私たちしかいない。
だから、ほんの少しだけ、僕も優しくなりたい。もう少しコーちゃんのために動けたはずです。ほんの少しを軽んじた僕は、後悔して当然です。
自己満足でいい。
死はいつ来るか分からない、だからいつ来てもいいように、僕は少しだけ優しくありたい。
P r o f i l e
上村 渉(うえむら・わたる)
東京の大学に通う三回生。趣味は、読書。一か月に20冊ほどコンスタントに読む、自他ともに認める活字中毒者。友達が致命的に少ないことから発症した模様。今日も、友達が欲しいと言いながら本を開いている。
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