辞書を集めて6000冊

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辞書コレクター境田稔信さんご自宅潜入レポート!

取材=任 冬桜・田中美里
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境田稔信(さかいだ・としのぶ)
1959年千葉県生まれ。フリー校正者、辞書研究家、日本エディタースクール講師、実践女子短大非常勤講師。高校卒業後、編集の専門学校にて校正、編集を学び、編集プロダクションを経て26歳の時にフリー校正者に。『広辞苑』『逆引き広辞苑』(岩波書店)、『大辞林』『新明解国語辞典』(三省堂)、『字通』(平凡社)など、出版大手各社のハイクラスな辞典に多数関わる。共著・共編に『明治期国語辞書大系』(大空社)、『タイポグラフィの基礎』(誠文堂新光社)がある。

 宝物庫の扉を開くのは「開けゴマ!」ではなく、インターホンの時代になった。本日お目当ての「宝物」は辞書。それも約6000冊。持ち主の境田稔信さんは校正のお仕事をきっかけに買い始めた辞書をご自宅のマンションに所蔵しているとのことで、アリババの名文句を思い浮かべてしまったわけだ。膨大なコレクション、果たしてどんな出会いがあるのだろうか。扉(※マンションの玄関ドア)が今、開く。
 我々『izumi』チームは玄関から数々の書物タワーに迎えられ、カニ歩きで廊下の本棚をすり抜け、国語辞典がずらりと並ぶ一角でお話をうかがった。私の頭の横には『明解国語辞典』が40冊ほど並んでいて絶句である。しかし早くもお宝が発見され、びっくりしている暇もない。本棚の上にひっそりと積み上げられている『康熙字典』(1716年に清の康熙帝の勅命で作られた)の初期の版本のお出ましである。
 境田さん「最初に刷られたものではないのですが、そのすぐ後に出たものらしい。古本屋さんに入荷を教えてもらって50万円で……」
 「50万円!!」
 境田さん「40巻あるので冊数で割れば1冊の値段はそんなでもないですね……」
 「はあ……」
 ちなみに250年以上前に刊行されたはずなので、錚々たる辞書コレクションの中でも最古だとか。この時点でまだ自己紹介さえしていないのだが、「辞書紹介」はずんずん進む。その後、無事に自己紹介が交わされてからも辞書にまつわる、様々なお話が続いた。
 思わず愛でたくなる『ベビ漢和辞典』を発見。豆本なのに字がちゃんと読める!
 「かわいい〜」
 境田さん「英和や和英辞典もありますよ。昭和初期にシリーズで出たものです」
さらに『言海』が本棚1架と半分近く占拠してしまっている訳を教えていただいた。
 境田さん「奥付が同じ初版でも、出てすぐに間違いを修正したものが存在したりするんです。『言海』だと改訂はほとんどないのですが、同じ版で表紙の色や本の厚み(紙質)が違っていたら買ってしまいます」
 本棚にはすでに色とりどりの『言海』があるわけだが、この後とっておきの『言海』がプラスチックケースから登場し、棚にあるものばかりではないと判明した。
  • 康熙字典。超貴重品
  • 『ベビ漢和辞典』。ち、ちいさい!
  • やっと手に入れた二分冊の『言海』

 辞書の紙質にはどんなものがあるのか。
 「辞書の中で好きな紙質のものはありますか」
 境田さん「めくっていて気持ちがいいのは和紙に印刷されているものですね。和本と同じスタイルですから、紙が袋とじになっていて、時には内側にもう一枚、裏移り防止や厚みを出すために挟んだものもあります」
集めるのに苦労した話を聞く。
 「思い入れのある辞書はありますか」
 境田さん「そうですね……20代前半に古本屋で見つけた辞書で、ご主人に値段を聞いたら「高いよ」って言われて、いくらかも聞かずすごすごと帰ってしまいました。しかしその後ずっと見つからず、30年近く経って再会したんです! 実はまた『言海』なんですけど(笑)、上下2冊になっている第二版です。初版四分冊と同じ10万円でした」
 そしてこんな質問も。
 「こんなに辞書があって、どこに何があるか、どう把握されているのですか」
 境田さん「いやあ、忘れちゃってるのもあるよね(笑)。一応、リストを作っているけれど」
 他にも、江戸時代後期の節用集・和玉篇や百科事典、外国語辞典など、種類が多くて挙げきれないほどである。
 形も古さも違う辞書を前に、それぞれの逸話を楽しそうに語ってくれる境田さん。やり取りが続くうちに、いつしか私の普段の紙の辞書像——分厚い、電子機器に負けている、でもたまにみると面白い、重い——は極彩色で塗り替えられていた。
 多くの変遷を経てきた、ベストセラーの辞書。かなり昔の、少し強引な解説がかえって新鮮な辞書。誰かの本棚から古本屋まで、たくさんの景色を見てきた辞書。そんな昔の辞書から現在のものまで収集されていると聞いて、当初はお宝探し感覚だった取材。それが境田さんの辞書愛を浴びて、古書価や物理的な貴重さとは離れた、一冊一冊の持つ色鮮やかなストーリーとの出会いへと変わっていった。
  • 江戸時代後期の節用集
  • アツく語る境田さん!

 境田さんは若い頃、校正の仕事を始め、辞書を見比べながら引いているうちに、それぞれの辞書が持つ個性に面白みを感じたという。勤め先が御茶ノ水だったこともあり、昼休みに古本屋の集まる神保町に通って2日に1冊のペースで買っていたらマンション2部屋分になってしまったそうだ。今では大学教授が古い資料を探しに訪れることもあるそうで、
 「図書館では、同じ題名の辞書は1冊ずつしか置かれないから、研究するのは大変ですよね。図書システムで検索しても、第何版・第何刷だとか違いが分からないことも多い。せめて奥付をスキャンして見せてくれるといいですね」と、辞書にまつわる研究についてもひと言。
 確かにそのような配慮があれば辞書研究も盛んになり、辞書の魅力がもっと語られて、豊かな辞書文化が花開くのでは……。と気づいたら、私も辞書を応援し、辞書を愛する人を応援していた。私が辞書研究に励むことはないかもしれない。それでも少しでも面白さに触れる機会が増えれば、境田さんの思いはもっと多くの人に共有され、もっと遠くに届くかもしれない。
 こんなことを考えながら、辞書の多様性、ユニークさを堪能した一日を振り返る。これから辞書と巡り合うたびに、ちょっと豊かな気持ちになるのかもしれない。その楽しさは境田さんから私へ、そしてこれを読んでいるあなたにも届いていてほしい。
 

境田さん、ありがとうございました!

(取材日:2017年6月11日)
文=任 冬桜
境田さん邸辞典収蔵スペース 見取り図
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任 冬桜(にん・とうおう)
本棚のスペースが足りなくなってきた、というがすでに1段に2列つめこんでいます。私もマンション1部屋でいいから書斎が欲しい。


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