Essay 笑いの根っこを辿って

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角川書店=編
ビギナーズ・クラシックス 日本の古典

『平家物語』
角川ソフィア文庫/定価792円(税込) 購入はこちら >

 笑うことには、不思議な力がある。
 何か大笑いした後には悩んでいたことを忘れてしまっていたり、クスッと笑う些細なことでさえ、心のどこかが潤ったような気がしたりする。あの笑った後の妙な爽快感は、精神衛生上結構大事だと思われる。
 だが、「じゃあ笑おう」と単純に切り替えるのはなかなか難しいし、笑えない人に笑えということほど酷なことは無い。特に最近は、コロナウイルスの影響もあって、どちらかというと暗い思いで毎日を過ごしている人の方が多いのではないか。
 笑うことが大切だと思いながら、一方では簡単に笑えない現状で笑おうとする努力を皮肉に感じてしまう。この葛藤を、どう乗り越えたらいいのだろう。
 私はこんな風に行き詰った時、よく古典を読む。古典は、単に娯楽を求めて近寄っても、生き方のヒントをもらおうと思って近寄っても、すべてを受け止めてくれる懐の深さがある。古典に描かれた人々は、いかに笑っていたのか。その姿から、笑いを見つめてみたい。
 時はさかのぼり、平安末期。鎧をまとった武士たちが、我先にと戦地に駆けだそうとしている。しかしながら、目の前には大きな川。それも、雪解け水を含んだ激流であって、下手に川に乗り入れようものなら流されてしまいそうだ。簡単には進めず、将軍九郎義経も思案する。これは『平家物語』宇治川先陣(うじがわのせんじん)の場面である。ここでは、川を一番に渡って名乗りを上げようとする梶原景季(かじわらのかげすえ)と佐々木高綱(ささきのたかつな)の二人の先陣争いによく焦点が当たるが、今回は同じくらい注目したい裏の主人公がいる。馬に乗ったまま宇治川を渡り、勇ましく名乗りを上げる彼らに対して、うまく川を渡れず、流されてしまった人物、大串次郎重親(おおくしのじろうしげちか)である。
 彼は、宇治川に乗り入れたとたんに馬が流され、自分も流され、あわや溺死という瀬戸際で、何とか川底を歩ききり、川岸で知り合いの武士、畠山重忠(はたけやましげただ)にすがりつく。重忠は半分呆れて、なんと重親を敵の待っている岸上に真っ先に投げ飛ばしてしまう。あれよと思う間もなく、重親は敵方の目の前に躍り出た。思い描いていた一番乗りとは違っただろうが、
 「武蔵国の住人、大串次郎重親、宇治川の歩立(かちだち)の先陣ぞや」
 と、重親は大声で、誰が聞いても恥ずかしくない立派な名乗りを上げる。だが、溺れかけておそらくは満身創痍、なおかつ川岸から投げ飛ばされての無惨な登場、ついでに馬もない。なにもかもボロボロなのに、名乗りだけ一人前では残念ながら何の格好もつかない。敵も味方もこれを聞いて、一度にどっと笑い転げる。
 だが、この武士たちの笑いは団らんを目的としたものではない。この直後から命の奪い合いが当然のごとく始まる。現代の読者なら、当然のように戦が始まるその様に少し戸惑うかもしれないが、私はここに注目したい。次の瞬間死ぬかもしれないという緊張の中でも、彼らは笑っていた。もっと言えば、彼らは戦の場でも笑うことが「できた」のである。面白いから笑う。それは人間の素直な姿だが、次の瞬間死ぬかもしれないという状況下、通常は容易には笑えまい。先人たちは、どんな心持ちで生きていたのだろう。実際に彼らに話を聞くことができるわけではないから、本当のところはわからない。
 だが、彼らは決して酔狂ではなかった、むしろ逆で、嫌というほど現実的であったからこそ笑っていたのではないか。『徒然草』には、木の上で居眠りをしている男を嘲笑する法師たちの話が出てくる。彼らは居眠りをしている男を「落ちるかもしれないのに、馬鹿な奴だ」と貶すのだが、それに対して、筆者の兼好は「死ぬことを忘れて生きているのは、私たちも同じではないか」と言う。この一言は、平家物語の武士たちより、現代の私たちに突き刺さる。
 平家物語の武士たちは全力で生きていた。それは次の瞬間死ぬかもしれないからである。その現実から、一瞬たりとも目を逸らしていない。ゆえに彼らの目に映るものは何もかもが鮮明であった。そしてあまりに明々(あかあか)とえぐり出される現実に、必死で生きる自分たちを見た。その自分たちを笑うことに、何の気おくれや嘲笑の念があっただろう。彼らは、純粋で素直に現実を受け止めて笑っていたのである。
 笑いは、現実を受け止めるところに根を張り、現実をより面白くするという形で実を成したものだ。そう考えると、今の私たちに必要なことは、笑おうと努めるより、目の前の日常をもっと見つめてみることかもしれない。目の前の現実は、確かに暗いように見える。だが、「〜のように見える」ことより、実際に「見える」ことを大切にしなければ、笑う門に来た福にも気づけないだろう。一寸先の闇より、足もとを見つめていきたい。

 
P r o f i l e
千羽 孝幸(ちば・たかゆき)

愛媛大学教育学部4回生。中等国語科専攻で日本古典文学ゼミに所属しています。音楽ではHIPHOPが好きなのですが、最近、和歌の歌合せとHIPHOPのフリースタイルが似ている気がして気になっています。

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