哲学者 朱 喜哲 先生 インタビュー
学生が他者と関わり合い、つながりを築いていくために
大学と大学生協にできること
デジタルネイティブといわれる現在の大学生はAIやSNSを自在に使いこなし、一見スマートに時代を乗りこなしているように見えます。しかし、個々の内面では自分の居場所を探しつながりを求めようとする繊細な一面があり、大学や大学生協にもその一助を求められています。
学生が他者に頼り頼られる、許し許される人間関係を築くにはどんなマインドが必要なのでしょうか。哲学者の朱 喜哲先生にお伺いしました。
朱 喜哲 先生
プロフィール
インタビュイー
全国大学生協連
全国学生委員会
委員長 佐藤 佳樹
(司会/進行)
インタビュアー
全国大学生協連
全国学生委員会
副委員長 浦田 行紘
インタビュアー
全国大学生協連
全国学生委員会
笹森 穂花
インタビュアー
AIへの依存
現代に通じる哲学者の言葉
円滑な人間関係形成のために
(以下、敬称を省略させていただきます)
はじめに

佐藤- 全国大学生協連が実施した第61回学生生活実態調査では「自分の居場所がわからなくて不安になる」「仲間がいて励まし合えた」などの声が寄せられており、学生にとってつながりや居場所が重要な意味を持っていることがわかりました。朱先生がさまざまなインタビュー記事で話されている「連帯」や「対話」のあり方は、大学生協においても非常に関心が深いところです。本日はよろしくお願いいたします。

朱- 朱喜哲、哲学者です。大阪大学文学部哲学科で修士まで進学し、一度民間の広告会社に就職して丸3年従事しました。その時期に改めて学びを深めたいと思い、入社4年目から会社員をしながら同大学の博士後期課程に戻り、2019年に哲学の分野で博士を取得しました。その間も並行して企業の中で位置情報、購買履歴など行動データを活用したデータビジネスの開
発やクライアントの支援を行っています。
ちょうどその頃、データビジネスの世界でも倫理や哲学への関心が高まり始めました。企業内でデータの倫理やガバナンス的な観点を求められるようになったのです。特に昨今はAIの発達もありますしね。それで私自身、学者としての仕事をしながら企業内哲学者(※)という立場でビジネスにも従事するようになりました。
(※)企業内哲学者は企業に倫理的・理念的視点を提供し、組織の意思決定において助言を行ったり、専門的な知見からコンサル業務を行ったりする。2010年代以降AppleやGoogleなどの企業も企業内哲学者を雇用あるいは採用している。
AIへの依存
「自立」と「依存」

佐藤- 朱先生は別のインタビュー記事でバラバラであることを受け入れ、他者と関わり合いつながりを築いていくことが必要だと言われました。今や学生の9割以上が利用するAIやSNSが発展する中、大学というフィールドの中で学生はどのように他者と共に生きていくことができるのでしょうか。


第61回学生生活実態調査より
・調査期間 2025年10月~11月
・調査対象回答数 13,277

朱- レポートや悩み相談など、AIの利用はこれからの時代、避けて通れません。どんな使い方をしていくべきかはまさにデジタルネイティブ世代である皆さんのこれからの課題でもありますが、私自身、AIへの過度な依存は反省すべき点があると思っています。
人文界でも「依存」というワードは重要なテーマとして、この5~6年よく取り上げられています。「依存」というと、皆さんやはり良くないことと思いますよね。依存症とかアディクション(嗜癖)は病的な状態のことでもありますから、何にも依存しないで自立した生き方をするほうがいいのではないかと思うでしょう。これを哲学では「近代的な自我」と言い、自分を自分でコントロール(自律)できるのが近代的な主体であるとされます。
でもよく考えると、誰にも頼らずに一人で生きている人はまずいないわけですよね。私たちはいろいろなものに頼ったり頼られたりしながら生きています。近年は「依存しない自立」は幻想なのではないかという観点より、他者に依存することの重要性から考えようと言われます。
脳性麻痺という障害を持ちながら小児科医として活躍する熊谷晋一郎さん(※1)は、自立というのは誰にも頼らないことではなく多くの依存先を安定して持っていることで、「たくさんの依存先にうまく頼るという状態が実は自立なのだ」とおっしゃるのですね。今また「関係的自立(※2)」と新しい言葉で言われたりしますが。
(※1)全国大学生協連では熊谷晋一郎さんから受験生の保護者へのメッセージをいただいています。
自立とは「依存先を増やすこと」
(※2)関係的自立は1980年代以降に議論されるようになった概念で、個人が他者や社会的環境との相互依存の中で自律を育むことを重視する考え方。
やはり私たちはお互いに頼ったり頼られたり、あるいは人文界で言うところのケアしたりされたりしながら生きているわけです。そういう観点から新しい自立概念を考えてみるならば、私たちは人にうまく依存する力を養うべきであるともいえます。
特定のものに過度に依存してしまったら、それは依存症やアディクションなどよくない状態となり得ますから、なるべく多くの人やものにバランスよく依存していく能力を習得していくことで、うまく人に頼る力が磨かれると思います。それにはやはり学習や訓練が必要なのですね。
過度な依存によるリスク

朱- それでは、AIに頼るとはどういうことなのでしょうか。例えばAIに悩み相談をするのは気楽です。親友や親兄弟には言いづらいこと、パートナーや恋人にも話せない相談、生身の友人に深夜長文で送りつけたらドン引きされるかなと思うことが、チャッピーになら気楽に投げかけてみることができます。
AIは気軽に頼れるし、非常に的確な答えを返してくれます。しかし、一方でそれゆえの危うさもあるのです。気を使わなくていいということは、良い点も悪い点もあるはずです。生身の人間の顔色を見たり相手のコンディションを気遣ったりしながら頼るのも、頼る力をバランスよく養うにはやはり必要なことだったりするわけです。
もう一点、私たちはAIを擬人化したり自分用にカスタマイズされているものと思ったりして親近感を持っています。でもAIは民間の私企業が利益追求のためにやっているサービスですよね。私たちはそのサービスに、ある意味無償であるいはお金を払ってまでデータや個人情報等々を提供しているわけです。それこそ親兄弟にも言えない秘密をですよ。
それってちょっと怖いことだと思いませんか。今一度考えてみてください。私たちはAIだけでなく、日夜さまざまなSNSやプラットフォーム上にテキストや音声を入力したり写真をアップしたりしてデータを企業に提供しています。企業はデータを使ってビジネスを回しているので、私たちは場合によってはお金を払ってまで日夜データを生産していることになります。
ヤニス・バルファキス(※)は『テクノ封建制』(2025年)で「これは資本主義ですらない」と提唱しています。私たちは給料ももらわずにただ働きしているわけです。それは資本主義ですらなくて中世の農地に囲われて奴隷のように働く農奴です。
(※)ヤニス・バルファキス(1961~)はギリシャの経済学者、政治家。
あなたはクラウド上の領地に可処分時間を奪われ時間を拘束され、データをせっせと生産して企業に富を提供していませんか。そういう環境の中で企業が提供するサービスに依存することでどういうリスクがあるのかは、深く考えてみる価値がある大きなテーマではないでしょうか。
現代に通じる哲学者の言葉
「会話」と「対話」

浦田- 頼ることの重要性をお聞きしましたが、逆に人に頼れない学生は大勢いると感じます。例えばみんなでレポートの作業をする授業だったら、協力して作業に取り組む人がいる一方で、一緒に作業しないで一人で全部進めてしまう人もいます。
教員採用試験に向けた勉強でも、面接練習を友達と一緒にやったりした人のほうが圧倒的に合格率が高いという事実もあります。面接練習を AIとはできませんし、どういうふうに人とコミュニケーションを取ることが大事なのか教えてください。

朱-
皆さんの世代だと学生時代にコロナ禍を経験されていると思いますが、その頃に実感したこと・今のAIの話でも感じることは、改めて生身の人間と一緒にいることの価値とか身体性(※)の価値ではないかと思います。
(※)身体性は、知能・認知・行動が身体と切り離せない関係にあり、身体を通じた経験や相互作用が学習や知能の発現に不可欠であるとする考え方。認知科学、人工知能、ロボット工学、哲学など多くの分野で重要な概念。
私はリチャード・ローティ(※)という哲学者を研究しており、先月新書を出しました。ローティは、「私たち人間や社会は受肉したボキャブラリーである」と言うのですね。受肉はキリスト教用語で、神・聖霊のように抽象的な存在が人の形をとって現れることです。神の子がキリストとして人間として現れることが受肉なのですね。
(※)リチャード・マッケイ・ローティ(1931-2007)は、アメリカの哲学者・思想史家。『哲学と自然の鏡』(1979年)、『プラグマティズムの帰結』(1982年)、『偶然性・アイロニー・連帯』(1989年)など。
『バラバラな世界で共に生きる:
リチャード・ローティの哲学』
(NHK出版新書 760)
2023年 朱 喜哲ボキャブラリーのような抽象的な概念が具体的な世界で形をとっているのが、私たち人間や私たちの社会なのです。ちょっと乱暴にいえば、つまり私たちは言葉でできている。だからこそ言葉遣いが変われば私たちも変わるし、社会も変わるのです。私はこの「受肉している」という部分に非常に注目しています。
やはり身体性と一緒にあるという点が、言葉の重要なポイントだと思うのですね。ローティは会話を大事にした哲学者ですが、会話(カンバセーション:conversation)は対話(ダイアログ:dialogue)とは違います。ダイアログは、「ロゴス(論理・言葉)を介して」という意味で、意味のある明確な言葉を使った営みがダイアログです。それに対してカンバセーションは一緒にいる、相対するぐらいの意味しかなく、黙っていていいから最小限一緒の場所にいるという状態のことです。
言葉って意思疎通とか合意形成のような高度な目的のためにあるというよりは、最初は動物のグルーミングのように緊張緩和の手段だったわけです。誰かと一緒にいるということは決して快だけではない。むしろ不安や不快も往々にしてあるはずです。その緊張を緩和するための技法として「会話」を改めて考えると、どうしたら共存していけるのかとその技法を考え直すことになります。理路整然と話すだけではなく、一緒にいることを耐えたり楽しんだりする作法としての会話の技量を磨くのも大切なことだと思いますね。
「バザール」と「クラブ」

笹森- 「嗜好品に連帯の契機を見出す」ということをテーマにした朱先生のインタビュー記事を拝読しました。「一挙手一投足に気を使わざるを得ない世界」で「バラバラであることを受け入れて生きていかねばならない」というお話が印象に残っています。大学生協も立場や価値観の違いを前提としながらつながりや対話を大切に日々活動しており、朱先生のお話とも重なる部分が大きいと感じます。つながりをつくるという点で、大学や大学生協に期待される役割とはどんなものなのでしょうか。

朱-

『バザールとクラブ』
(よはく舎) 2023年
朱 喜哲(編者)大学生協に当てはめるのは難しいかもしれませんが、ローティが彼の社会哲学、公共哲学で「人間には2種類の場所が必要だ」と言っています。それは公共的(パブリック)な場所と私的(プライベート)な場所を指し、それを彼は「バザール」と「クラブ」に例えました。
バザールとは市場空間。どんなお客さんが来るかわからないけれど、みんながそこで生計を立てなければならない。お互いに気を使いながら生活するから、ある種の正しさが求められます。みんながちゃんとした言葉遣いをしたりお行儀よくしたり気を使い合ったりするから結果的に安全な場所になるのですが、やはり精神的に疲れる場所でもあります。
だからこそローティは、人にはバザールだけではなく、クラブ的な場所が必要だと言うのです。会員制のクラブを思い浮かべてください。顔なじみが集まる場所では、気を抜いて本音で話せますよね?
バザールは安全だけど疲れる場所。クラブは心理的安全性が得られるけれど、やはり昼間のガス抜き的な場所になってしまうので、昼間に会った人の悪口が飛び出るかもしれないし、それがその人を抑圧したり侮蔑的・差別的なことにつながるかもしれない。つまり、その中にいる人には、安心ではあるけれど危うい場所でもあるのです。ここで大事なポイントは、人にはやはりこの両方が必要なのだということ。もしバザールしかなかったら人々は疲弊してしまう。そしてたまった鬱憤が社会を不安定にさせ、そこで大声で本音を叫ぶ政治家が快哉を浴びることもあり得ます。90年代にローティは、そういうストロングマンがいつか現れるというふうに、正しさを推奨していく当時の風潮に一石を投じたのです。
それがまさに20年後に起こるトランプ現象を予言したと話題になりました。私が言いたいのは、AI以前の鍵アカやDMグループのように、正しくないかもしれないことまで含めて話せるクラブ的な場所が私たちにはどうしても必要なのだということです。でも鍵アカだってさらされるかもしれないし、DMだって誰かがそれをスクショして公表するかもしれない。LINEだって同様ですよね。
正しさに敏感な社会

朱- これは個人のルール違反の問題ではなくて、プラットフォーム上でやり取りしているのだから、基本的には秘密になんかならないですよね。我々の営みはデータとして残るので、開示請求があれば過去の失言とか言い違いも表に出て糾弾されることがあり得ます。そう考えると私たちは全てバザール化された社会に生きていて、バザール的な正しさの観点から裁かれることがあり得るわけです。
正しさについて敏感な社会ではあるものの、でも100%潔癖で正しい人なんか本当はいませんよね。だからその「正しくなさ」と、どううまく付き合っていくのかが求められます。そのためにはやはりクラブのようにある種の暗がりのある場所、ちょっと後ろめたいことややましいかもしれないことを、同じ趣味を持った人と共有できるような場所が必要なのです。
それは例えば酒場みたいな所かもしれないし、推し活みたいな集まりかもしれない。人々が互いに正しくないことだとわかっているけれど、「でもこれって自分たちにとって欠かせない」と思いながら集まっていれば、その場所はある種のモラルを擁しバランスを取りながら存続していきます。
嗜好品は「生活に必要ないもの」というニュアンスがあり、ある種の「正しくなさ」を抱えています。こんな贅沢しなくてもいいんじゃないかとか、こんなに着飾る必要ないじゃないかとか、お酒なんて百害あって一利なしだとか。そのように社会全体がお互いに正しさを振りかざしがちな中で「正しくなさ」は抑圧される傾向があるので、どうやってその部分を認め合いながらつながっていけるのかと考えることは大事な観点だと思います。
生協に言うのはなかなか難しい提案かもしれませんが、潔癖で正しさだけからなる空間は今あちこちに溢れ返っているので、後ろ暗さをさらけ出せるようなクラブ的な場所をどのようにしてうまく作るかがこれからの課題だと思います。そうしないと、そういう場所はどんどんなくなってしまうと思います。
円滑な人間関係形成のために
嗜好品の役割

佐藤- 新学期に新しいコミュニティに入ったタイミングで、知らない人ばかりの中で誰とつながれるかと悩む学生も多いと思います。生協学生委員会ではその不安をどれだけ減らしてあげられるかということをコミュニティづくりの観点で重視しますが、効果的な方法を教えてください。

朱- 例えばいきなり「話し合ってください」と言われてもできませんよね。やはり「お茶しましょう」「お酒を飲みましょう」と間に何かを挟むことでその緊張が緩和すると思います。その意味では嗜好品って余計なものではなく、やはり特有の役割があると思うので、何を媒介にすればみんながつながれるのか考えて、クラブ的な空間をどう作るかが大事な気がします。
一例として、地域にこだわってみるのはどうでしょう。「県外出身者が孤独を感じていないか」「西日本出身者で集まろう」という形で、「普段言えない愚痴を話してもいいんだよ」と水を向けるのもいいかもしれませんね。お行儀のいいことばかりじゃないところに宿っている良さもありますので、そんなことも念頭に置いて企画を考えてみてもいいかと思います。

佐藤- それは留学生の方の集まりにも通ずると感じました。
会話を持続させるには

浦田- さまざまな価値観を持つ人や立場の違う人と一緒に活動しているという点が大学生協の強みでもあると感じております。その中で大切にすべき会話のあり方を教えてください。

朱- 例えば皆さんのゼミにおける議論は、対象のテキストをより理解するとか、お互いに意見を交わして合意するということに目標があるわけじゃないですか。会議なども何かを合意し決定するというように目的があるコミュニケーションですよね。だけど会話には特に目的はありませんよね。
ローティは「会話は、単にそれを続けることだけが唯一の目的なのだ」と言っています。それは永遠に話し続けろという意味ではなく、その会話を受けてまた別の人と話が続くというように、話が途切れないように続けることが大事だと言っているのです。うまくしゃべらなきゃとか目標を達成しなきゃと思うと、コミュニケーションは窮屈なものになってしまいます。どうすれば互いの緊張感を緩和させ、相手が黙らないように会話の舵取りができるかということは、結構大事な観点だと思います。
そのためには「こういうことは発言しない」「存在を否定することは言わない」などのグランドルールがあるとうまく機能します。「はい、集まってください」「さあしゃべってください」「どうぞ安心してください」と言ってもなかなか難しいので、場づくりをする側の責任としてルールを決め、ファシリテーション的な役回りをうまくしてあげることが大事なのだと思います。
大学は安心して間違えられる場所

笹森- 私は会議などでうまく話さなきゃと思い、一度頭の中で完璧に考えをまとめてからじゃないと話し出せません。日常生活でAIと会話する機会が増えていますが、AIは全部肯定してくれるのでそれに慣れてしまい、生身の人間と会話する時に否定されるのが怖いと感じる学生も多いと思います。大学生が安心して他者と関わり声を発信し続けるために、大学や社会にどのような役割が求められるのでしょう。

朱- 大学や社会が今、安心して間違えられる場所ではなくなったのですね。大学は学びの場所で、学生がいろいろなことにトライするためには、間違いが許される場所でなければと思うのです。例えば、読書会を開催して一緒にテキストを読み、作品を鑑賞して意見を出し合い感想を伝え合う。これは正解がある営みとはちょっと違いますね。より良い回答を求めるというよりは、自分の考えや感想がどれだけ小さなものであってもその場に出してもらったほうがいいわけです。
自分自身の話だったら、これ話して大丈夫かな、間違ってないかなとセンシティブになってしまうことがあると思います。でも学びの場では何かを介在できるのです。一緒に読んだテキストを介してそれをどう読んだかという話をするのであれば、直接自分を差し出すよりは話しやすいと思います。
だから私は、読書会などを学生が自主的に行うのをお勧めします。答えがないけれど自分はこう読めた、こんなふうに思ったのだという話をきちんとしていく。何かを媒介して考えを述べ合うことを体験できるのが大学での学びですので、そういう観点で仲間と一緒に何かを読むという経験をするのはいいと思います。

笹森- 私は他の人と違う考えを話した時に、すごく恥ずかしさを感じることがあります。朱先生は学生と関わる中で意識されていることはありますか。

朱- 読書会、あるいは一緒に映画を鑑賞して感想を話すときのポイントは、答え合わせのゲームではありません。最近は映画を見たら、どういう感想を持つのが正しいのかとレビューサイトを調べて自分の考えの答え合わせをしたりしますよね。これだけ情報が溢れていますから、考察的なものを読んだだけで観た気になったり、あるいは自分の感想もそれに寄せて話そうと思ったりすることはあるでしょう。
でも、そうやって答え合わせをするのってあまり面白くありませんよね。私が皆さんに心がけてもらいたいのは、正しい感想を言うことではありません。この点に影響を受け、そこから自分がどう変わったかを話すことです。自分に何が入ってきたかと考えてみると、正解がないことでもちゃんと話せると思います。私にはこうだったと、作品を通じて自分自身の言葉で語るということに意味があると私は思います。
若者世代へのメッセージ

佐藤- 朱先生は学生時代、どういったコミュニティに属されていたのでしょうか。

朱- 専門に進んでからは哲学のコミュニティにいましたが、授業以外ではみんなと読書会をしたり、違う大学の同じ分野の人たちとリモートも含めて読書会や研究会をやったりしていました。でもそれだけでは使う言葉が限られてしまいます。サークル活動や飲食店でのアルバイトで、普段会わないような人たちと違った言葉遣いをするのは面白かったですね。

佐藤- 同じジャンルの人とばかりじゃなくていろいろなカテゴリーの人と話すことは、自分のボキャブラリーが広がっていくという意味がありますね。

朱- 実は大学や専門領域で会う人は学歴や関心など似たところが多く、意外と多様性が大きく出ないんですよ。だから違った場所に赴くのは大事ですね。

佐藤- 最後に今の若者世代(大学生世代)に向けて、他者とつながって生きていく中で大切にしてほしいことについてメッセージをお願いいたします。

朱- 現代はSNSに取り囲まれ、さまざまな観点から正しさを意識せざるをえない時代だと思います。かといって、誰もが清廉潔白で正しいということではないわけですから、自身や周りの「正しくなさ」とうまく付き合うことは、大学での学びの一つだと思います。歴史を学ぶことは人類の過ちを学ぶことでしょうし、哲学にも最強の哲学があるわけではなく思考の間違いというのはありがちです。
そういうふうに私たちは、社会からなかったことにはならない「正しくなさ」「間違い」「過ち」から学んでいる面もたくさんあります。AIなら絶対正しいことを返してくれるかもしれませんが、私たちは生身の人間なのでミスもするし、正しくないこともするかもしれない。許し許される人間関係って、組織人や職業人になるとつくりづらいこともあるので、正しくなさも含めて仲間や友達をつくっていく時間として、大学時代を大事に過ごしていただきたいと思います。

佐藤- 大学生だからこそ失敗もある意味ポジティブに。間違いから学び、何を次に活かせるかを考えながら前向きに生きていくことが大事なのだと感じました。本日はありがとうございました。
2026年6月1日 リモートインタビューにて
PROFILE

哲学者。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。専門はプラグマティズム言語哲学とその思想史。また、企業において行動データを活用したビジネス開発に従事し、ビジネスと哲学・倫理学・社会科学分野の架橋や共同研究の推進にも携わる。著書に『人類の会話のための哲学』『〈公正〉を乗りこなす』など。2026年5月に初の新書『バラバラな世界で共に生きる――リチャード・ローティの哲学』(NHK出版新書)、6月に初の文庫『増補 ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(ちくま文庫、共著)を刊行。

