哲学者 田村 正資 先生 インタビュー
大学時代は贅沢な時期
~気持ちの赴くままに学び、無限に開かれた可能性に手を伸ばしてみてください~
哲学研究を基に「AI時代における独自性」や「問いを立てること」をテーマとした発信、執筆活動を行うと共に、会社員として多くの登録者を抱えるYouTube等のコンテンツ制作や新規事業開発にも携わっておられる田村正資さんに、日常を過ごす中での「問い」や「学び」の見つけ方、AIとの向き合い方、哲学的に物事を捉える多角的な考え方について、わかりやすい例を交えつつお話いただきました。
田村 正資 先生
プロフィール
インタビュイー
全国大学生協連
全国学生委員会
笹森 穂花
インタビュアー
全国大学生協連
全国学生委員会
齋藤 和奏
インタビュアー
全国大学生協連
全国学生委員会
島田 大誠
インタビュアー
日常生活で「問い」や「学び」を見つける
日常の中での読書の位置づけ
(以下、敬称を省略させていただきます)
日常生活で「問い」や「学び」を見つける
日常に対する多角的アプローチ

笹森- 全国大学生協連で実施をしている『学生生活実態調査』の結果において、本を読まない学生が近年増加しており、更に読書をする学生の読書時間の減少も実態としてありました。一方で生成AIの利用は2023年から25年にかけて急速に広がっており、 2025年には大学生のAI利用経験者が9割を超えるという結果も出ています。
田村さんは哲学者としてAI時代における独自性や日常の中で問いを立てることをテーマに、発信や執筆活動を行い、著書のなかに『問いが世界をつくりだす メルロ=ポンティ 曖昧な世界の存在論』もございますが、私自身日常生活で自ら問いを立てるとか、この瞬間は自分自身の学びができているとか、成長できていると感じる場面があまり意識できていません。田村さんが日常生活の中で問いを立てる力や、そういった感性を育まれたきっかけ、大学生活で意識されていたことがあればお聞かせください。

田村- 僕は大学に最初理系で入学して、その後内部で進学先を決めるときに哲学を専門にすることにしました。元々将来何をしたいのか全然決めていない状態で大学に入ったんですが、最終的には哲学を勉強することに決めました。というのも、普通に生きているなかで、見たり、聞いたり、触れたりするものの面白さをもっと引き出せる、そういうツールとして哲学があると思ったからなんですね。哲学者がこれまで考えてきたことを本で読んでいくと、いろいろな具体例が出てきます。例えば「庭に木が生えているが、それは今私が見ていない時にも存在するのだろうか」とか。そういう考え方やアプローチがすごく特殊なもので、自分たちが当たり前に生きている世界にそれまでとはちょっと違うアプローチや考え方で切り込んでいくことができる。そんな考え方のバリエーションをとにかく積み重ねていったものが、これまでの学問としての哲学の歴史だと思っています。いろいろな哲学者の考えに触れていく中で、自分がこれまでと同じような生活をしていたとしても、それに対してちょっとメタ的に捉えるとか、下から捉えるとか、横から捉えるとか、斜めから切り込んでいくとか、いろいろな捉え方ができるということを学びました。
わかりやすい例を出しましょう。例えば友達と映画を見に行って、自分はすごくつまらないと感じたけれども、友達は感動して号泣していた。そんなとき、もちろん「僕はつまらなかった」で終わってもいいのですが、友達が号泣しているのは何故だろう、どこに引っかかったのだろうか、自分はどうしてそれが引っかからなかったのか、一歩踏み込んで考えてみることができる。そうでなくても、その映画を見てつまらなかった者同士でどこが面白くなかったか言い合うのもそれはそれでなんか楽しかったりする。相手と自分のどっちが正しいかとかではなく、お互いがどこに感動し、何を面白いと思ったのか、どこに面白さの基準を置いているのかを考えること自体がすごく楽しい。そこから理解が深まっていくこともあるし、、なにごとも噛めば噛むほど味が出てくるということを知っていくわけですね。普段と同じように過ごしているなかでも、見る角度、聞く角度、考える角度を少し変えるだけで全然違う捉え方ができる。哲学を学ぶなかで得たそんな気づきが、その後の僕の考え方や価値観に大きく影響していると思います。
学びや成長を得るために、社会を変えるイノベーションの種を見つけるんだとか、誰よりも効率良くやってやるんだとか気負う必要はない。学びや成長は、自分が普段触れているものについて、どれだけ時間を使っていろいろな角度で切り込んでいったかというところにも出てくると思います。今は本の要約を提供するサービスなんかもありますが、そういうものは情報を仕入れるのには役に立っても、哲学的な考え方を身につけるのにはあまり使えないと思います。多くの哲学書は、身近な一つのトピックについて、本一冊をかけて「こう見たらこう見えるし、こっち側から触ってみたらこんな感触がするし、裏返して鼻をくっつけてみたらこんな匂いがする」みたいなことを延々とやっているようなものです。だから、最後にはその本なりの結論が示されているとしても、その結論だけ拾ってその思考のプロセスを追体験しないことにはあまり意味がない。哲学者の論述を追いながら、この人はいったいどうしてこんなことをぐだぐだうじうじと考えているのだろう、と付き合っていくうちに、それまでの自分のなかにはありえなかった感性が養われてくる。いろんな哲学者の議論に触れていく中で、自分の見え方、感じ方が変わっていく経験をしてきたことが「問いが世界をつくり出す」という僕なりの世界観につながっていったと思っています。
哲学を学ぶことで育まれた感性

笹森- 同じ映画を見たり、同じ本を読んだりした時に感想が違うと「私とあなたでは価値観が違う」という一言で済ませてしまう人も多いと思うので、どうして違う感想を持ったのか考えてみることは大事だなと、新しい見方を教えていただきました。
田村さんの大学時代の友人の皆さんも、同じような研究で哲学的な考え方が育まれたのでしょうか。友人の皆さんとの会話や日常のつながりから、そういった感性が養われたのか気になりました。

田村- 友人たちがそんな感じだったかというと、あまりそんな気もしないわけですけど。
自分がどうしてそういうことを考えがちになったのか、同じ物の別の見え方が気になるようになったか……。一つのきっかけでしかないと思いますが、高校時代に「高校生クイズ」というテレビ番組に出たことが挙げられるかもしれません。テレビに出た時に、それまで自分たちがあまり意識していなかった部分を肩書きや称号として誇張され、スタジオでスモークを焚かれライトを当てられて、展開に合わせていろいろな演出がつけられる。それは僕らが学校に行って友達とくだらない話をしている日常の景色とは全く違うものでした。しかし、テレビだけを見ていたら、それらの演出もひっくるめて僕の姿だということになる。メディアに出るといろいろと歪曲されてしまうこと、一部分がすごく誇張されて伝わってしまうことを実感する瞬間がたくさんあったことで、物の見え方というのものが一筋縄ではいかないという感覚を、高校時代から持っていたのかもしれません。
ただ、物の見え方にはいろいろあるんだという感覚は、常にネガティブなものではありませんでした。それは、物事の楽しみ方にもいろんな種類があっていいんだ、という気づきにも繫がっていました。ある映画を見に行くときに原作を事前に読んでから行くのか、そうでない状態で行くのかによって、見え方が全く変わったりするわけですよね。原作を読んでから行くと、実際に映画にするときに作り手がどんなことを考えてあらすじやキャラクターを変更したのか、そういうことも味わいながら見ることができます。逆に原作を読まずに行くとそのままの物語として面白かった、つまらなかったという視点になる。アニメや映画が昔から好きだったので、同じ作品がメディアミックスされていくことで全然違う感触の作品になったり、面白くもなったり、つまらなくもなったりするということも体験していました。だから、そういう感性の種は自分の中にあって、それを意識的に育てるきっかけになったのが哲学だったのかなと思っています。
AI時代に必要な学びに対する姿勢

島田- 私も大学時代に哲学の授業を履修しましたが、自分にはなかなかに難しいというか身近に感じられないところがありました。周りの友人たちもそうですが「結局何が言いたいのか」という結論を求めたがってしまう節があって、そういう時に出てくるのがやはりAIで、AIによって短時間で大量の情報やある程度精度が高い答えを得るということは、おそらく学問において一番大事であろう思考するフェーズを全部AIにお願いしていることになるとは思うのですが、自分自身も恥ずかしながらAIに聞いてしまいます。そういった自分で考える大部分を放棄して最初からAIに頼ってしまう、自分で問いを立てて考え学んでいくことを、自分自身への自戒も含めてですけども、どのように全国の大学生たちに広げていくことができるのかというところのお考えを聞かせていただければと思います。

田村- 僕たちの時代にはこんなに便利なツールはありませんでした。しかしいまはあって、みなさんにとって簡単にアクセスできるものになっている。そんな時代に、自分なりに考える力を養っていくのは本当に大変だと思います。
以前、ある大学の授業でAIについて話をさせていただいたのですが、その時も学生がAIとともに学ぶことの難しさについて教えてくれました。その学生は、タスクがキャパシティを超えた状況になり、追い詰められてしまった結果レポートにAIを使ったそうです。そうしたら、単位が取れるどころか成績が上がってしまって、がっかりしてしまったと。その大学はガイドライン上AIを使うこと自体に問題はなかったので、カンニングや単位取り消しなどの対象にはなりません。だから、ルールの範囲内で楽をした結果、成績が下がるのではなくむしろ上がってしまったということになります。この話を聞いて、いまの学生は本当に大変な状況に置かれていると思いました。自分がAIを使わずに頑張ってBで、友達がAIを使ってAを取ったみたいな状況があるときに、その不公平感にモヤモヤ、イライラしてしまうことに耐えられるのか。そのうえでなお、自分の頭と身体を使って取り組むことが大事だという姿勢を貫けるのか。
しかしそんな状況でも、自分が何のためにAIを使っているのかは意識しておくべきだし、学びを無視して楽をするために使っているのであれば、それをきちんと自覚しながら使うことが大切だと思うわけです。なんとなく課題をこなすために使っているというのが一番もったいない状態で、自分の生活の中で優先順位をつけて、優先順位が低いものはAIで済ませてしまおう、その代わり別のやりたいことをしよう、といった意義を持たせられるのであればいいと思います。
とはいえ、大学というのは目的や効率といったものをいったん無視して抽象的な学びに打ち込める最後の場でもあります。ひとたび社会に出てしまったら、学ぶことよりも生き抜くことを優先せざるをえませんから、成果が出るなら四の五の言わずにAI使ってどんどん効率化していきなさいとなるわけです。だから、まだなんの役に立つかもわからない基礎研究とか、概念のパズルみたいな抽象的な思想の話とか、役に立つことからかけ離れた文学の話とか、そういうことを自由に学べるはずの、大学にいる時間を大切にするためにAIも上手く活用してもらいたい、というのが本音ですね。大学にいる時間というのは、振り返って考えてみるとすごく贅沢な時間で——もちろん、ひとそれぞれ置かれた環境が違いますから、それぞれの制約はあるにしても——生き抜くことから離れて学ぶことに時間を費やすことが許された場であるということは知っておいてもらいたいですね。
ひとつ、AIが普及した時代の生き方を考えるときに僕がよく考えることを話してみます。これまでの歴史のなかで、AIはマインドスポーツとの関わりでしばしば話題になりました。代表的なのが、IBMが開発したチェス専用のコンピューター「ディープ・ブルー」ですね。1997年、チェスのグランドマスターだったカスパロフと戦って勝利しました。その後将棋でも囲碁でも、コンピューターが人間に勝っていくことになるわけです。じゃあ、と僕がここで考えてみたいのは、ディープ・ブルーとカスパロフが対局しているときに、ディープ・ブルーの指示通りにチェスの駒を動かしている「この人」は、果たして楽しいのだろうか。彼はチェスを楽しめているのだろうか? ということです。もちろん、この歴史的な対局でカスパロフの向かいに座っているのは、IBMでチェスコンピューターの開発にずっと携わってきた人ですから、自分がいま歴史的な瞬間に立ち会っていることを理解しているという意味では、興奮していただろうし、楽しかったと思います。では、そこにチェスのルールもよく知らないあなたが座っていたらどうでしょうか? あなたは、カスパロフが打った駒の位置をコンピューターに入力し、画面に表示された通りに次の一手を指す。それをひたすら繰り返すだけなんですね。これを繰り返しているだけなのに、あなたはチェスで人類最強の人物に勝ててしまうわけです。あなたはすごいことをやっているんですが、あなたはその意味もわかっていないし、実感も伴わない。それは全然面白くないんじゃないかと思うわけですね。なんでもAIにとりあえず聞いて、出てきた答えをそのまま自分のアウトプットとして提出するような行為は、ただ指示された通りにチェスの駒を動かしているのと変わらない。自分が何を成し遂げているのかもわからないまま、人類がこれまでできなかったことをやってしまう。そんなことをしていたら、楽しくなくないですか? AIを使うとしても、自分がAIと何を成し遂げているのかをしっかり学んで理解していれば達成感も感じられるし、充実感もあって素晴らしいことだと思いますが、理解していなければ何の面白みも感じられないんじゃないかな。そうなりたいですか?
もう既に、人類がAIなしで暮らしていくことを想像するのも難しくなっています。AIを全く無視して頑張り続けるわけにもいかないので、AIがある前提で、僕たちはどうありたいのかを考えていく必要があると思っています。

島田- 将棋などでもこういう場面をニュースで度々見た印象があります。
自分が人生を生きる上で結果を重視するのか、それとも上手くいかなかったとしても考える過程や努力した過程を重視するのか、どちらに大学生活の重きを置くのかが肝になってくるのかなと私は考えました。

笹森- 近年AI利用がデメリット的に話されることが多くなってきたと感じています。AI を利用するから考える機会が少なくなってきているみたいな話も結構多くされる中で、AIと共に生きる前提でというのは大事な考え方だと思いました。
日常の中での読書の位置づけ
本というメディアの強み

齋藤- 学生の読書時間の減少については、大学生になり時間がないことや購入するハードルが高いことが、私自身も含めて多くの学生の中で一因となっているのではないかと思います。
大学生の日常的な楽しみの中に読書をどう位置づければよいのか、また大学生の時にどのように読む時間や機会、本との出会いを作っていたのかについてお聞きしたいです。

田村- 大学生に対する仕送りの平均額は、物価が上昇しているにもかかわらず下がっているそうです。そんななかで、大学生に本を買って読んで、と言うのは難しい状況になっていると思います。いまや情報を得るだけなら本に頼る必要はまったくないわけですが、やはり一人で孤独にテキストと向き合う時間は、その人自身の考え方を養っていくうえでいまも重要だと思うので、大学生でいられるあいだにたくさん本を読むのをオススメしたいのが僕の本音ではあります。
大学生協の思い出になりますが、生協に加入していると書籍部で本が10%オフで買えたので、それは非常に助かりました。少しでも安く買えることが本をたくさん読む身にとってはありがたかったですし、大学の書籍部には僕の関心に近い本もたくさんあったので、日々新しい本や未知の本との出会いを楽しんでいました。
僕が楽しく本を読み続けられたのは、やはり一緒に学んでいる仲間たちがいて、マイナーな本でも感想を言い合うことができる環境にいたからだと思います。本を読むことは孤独な営みですが、その本を読んで終わりとか、わからなかったから終わりということにはなりません。わからなかったら他の人と一緒に考えればいいし、面白かったところは他の人にお勧めしたらいいし、自分が孤独にテキストと向き合って考え感じたことをいったんオープンにして、他の人たちと共有する中で本そのものの存在感がさらに増していく。そういう繰り返しが楽しいんです。生き抜くために必ずしも本は必要ないかもしれませんが、学ぶために本というメディアを上手く扱えることは、まだまだ非常に重要だと思います。あちらから見たり、こちらから触れたり、匂いを嗅いでみたり、放り投げてみたり、そういう著者の一連の思考の軌跡がしっかりと追体験できるものという意味で、本にはまだまだ優位性があります。動画のほうが速くてわかりやすいということもあると思いますが、本だからこそ思考の幅が広がっていくこともあるのだ、ということは伝えていきたいですね。
コミュニケーションツールとしての価値

齋藤- 本を読むことに目的を求めないという人がいる一方で、目的を求めてしまうと、どんどん読書から離れてしまうことが大学という時期ではあると思っていました。学びの中に本を位置づけるところで言うと、具体的に大学の学びや授業の中でどのように本を使っていたのか、学びを深めるための経験などがあれば教えていただきたいです。

田村- 哲学をやっていたということもあり、1冊の本をみんなが読んできて、誰かが内容のまとめや解釈を発表してそれに対してリアクションし合う、そういう場が多かったですね。本を中心に置くことで、みんな合わせてひとつの思考する身体のようになる体験ができました。最初は僕も自分から意見を言ったり面白い解釈を提示したりすることはできなかったけれど、他の人の意見を聞いているうちに、それと比べてみると自分はここが印象に残ったなということが見えてくる。実はそういうふうに対話を通じて理解を深めていくのに本は向いているんじゃないかと思っています。というのも、映像とかだとそのシーン全体について自分で説明しなければいけないわけですが、本だとその文章を指し示すだけでいい。自分の感想が上手く言語化できなくても、取りあげたい箇所はスムーズに伝えることができて、他の人の意見も引き出せる。そういう特徴が本にはあるのかなと思っています。

齋藤- 私自身読書は一人でするものというイメージがあったのですが、コミュニケーションのツールとしての読書の価値というのはお話を聞いた中での発見でしたし、同じ学部の同じ学問について話せるのは、大学に通っている今だからこそできることだなと感じたので、大学生協でも読書会のような取り組みをしているところもありますし、そのような本を通した交流、意見交換をして新しい解釈を知るとか新しい発見をするような機会を大切にしていきたいと感じました。

島田- 今のお話はすごく大学生協にとっても大事なことだと思いました。生活協同組合である以上、人と人とのつながりがすごく大切になってくる組織の中で、その媒体となるものはいろいろなものがあると思っていて。今回の場合だと人と人とをつなげるものが本であり、例えば作者と読み手をつなげたり、いろいろな人を感想交流の中でつなげたり、さまざまな側面に機能することで、ただの商品に留まらず人と人とを結びつける媒体となり得ることを感じ取ることができました。
若者世代へのメッセージ

笹森- ここまでAIとの向き合い方や読書に対する考え方など、さまざまなお話を伺ってきましたが、大学生を中心とした若者世代に向けて、田村さんからメッセージをいただければと思います。

田村- 大学生と一括りにしてもいろいろな状況の方がいらっしゃるとは思いますが、一旦その細かい違いを無視して敢えて言わせてもらいます。大学に在籍しているということは、生き抜くことを最優先に置かずに学ぶことや知ることに関心を割いてもいいというか、それが許される数少ない贅沢な時期にあるということです。もちろん、生き抜くことのプレッシャーが大学生に対して高まっているような社会状況であるということは本当に悲しむべきことであり、そういうことは上の世代が頑張らなければいけません。ですが、社会的な評価とか金銭的な価値とか、生き抜くために必要なものを一旦無視してでも、ものすごくマイナーなジャンルについて自分の気の赴くままに探究したり、この街で自分以外誰も読んでいないような本を読んで、それについて友達と語り合ったり、現実世界に出ても役に立たない思想や哲学を、それが気になるという理由だけで研究する、そんなことが許される本当にわずかな、そして贅沢な時期だと思います。
大学生が社会的なことや実利的な価値について考えずに、気の赴くままに学問ができる状態が存在するということこそ、いい社会の一つの条件だと思います。生き抜くこととは全然違う領域があるということ、単なる遊びではなくて大学というのは学ぶことに時間を使える場所だということをお伝えしたいですし、皆さんが大学でどんなことに打ち込むのかは、皆さんがいる大学や周りにいる人たちとの関わり中で無限に開かれていると思うので、日々少しでもいいから考える時間を作って、こんなことをしたら面白そうだなと手を伸ばしてみてもらえると、僕は嬉しいです。

笹森- 今を生きる大学生にも届くメッセージでしたし、私たちが今後大学生協として活動していく上でも、参考になるお話をたくさん伺えました。
本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございました。
2026年6月5日 リモートインタビューにて
PROFILE

田村 正資 先生
1992年 東京生まれ。
東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)
現在は株式会社batonでYouTubeチャンネル「QuizKnockと学ぼう」やECサイト「QurioStore」などの企画・立ち上げを手掛けるかたわら、哲学研究と作家活動も行う。
主な著書
『問いが世界をつくりだす メルロ=ポンティ 曖昧な世界の存在論』(青土社)
『この時代を生きるための 独自性のつくり方』(クロスメディア・パブリッシング)
『思考のストレッチ』(講談社)
1992年 東京生まれ。
東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)
現在は株式会社batonでYouTubeチャンネル「QuizKnockと学ぼう」やECサイト「QurioStore」などの企画・立ち上げを手掛けるかたわら、哲学研究と作家活動も行う。
主な著書
『問いが世界をつくりだす メルロ=ポンティ 曖昧な世界の存在論』(青土社)
『この時代を生きるための 独自性のつくり方』(クロスメディア・パブリッシング)
『思考のストレッチ』(講談社)
