時をかけるいずみ委員

特集「時間ものがたり」記事一覧

過去のいずみ委員
 

芭蕉みどり
『おばあちゃんのかぼちゃパイ』
ポプラ社 本体800円+税

 みなさま、こんにちは。本日は特集である「レトロ」について——え、違う? 今回の特集は「レトロ」ではなくて「時間」なのですか? 前回の委員会では特集テーマは「レトロ」に決定したと聞きましたが、わたしの勘違いだったのでしょうか——え、いまはそもそも2014年ではない? いまは2017年なのですか?
 ……そうですか、そうですか。ということは、わたしは未来の『読書のいずみ』にうっかり迷い込んでしまったのですね。これはびっくりです。たとえこのタイムリープが紙面上に限った出来事だとしても、そこはかとなくわくわくします。ちなみに、ラベンダーの香りは嗅いでいませんよ、念のため。このような、よくあるSF物語のような出来事が起こったのはきっと、この号の特集が「時間」だからなのでしょう。ゆえに、過去と未来をつないでしまう、なにかの魔法がかかってしまったのかもしれませんね。都合の良すぎる解釈ですか? 設定があまりに雑ですか? それはそれで一興なのですよ。
 そうそう、忘れるところでした。『izumi』に呼ばれたということは、たとえ未来であったとしても、テーマに沿った記事を書かなくてはなりません。「未来では書けません」では、いずみ委員の名が廃ります。せっかくですから、2017年を基準にすれば過去の存在であるこのわたしよりも過去の「わたし」——幼い頃のわたしがすきだった、絵本のお話をさせてください。

 「おばあちゃんて、ずうっと おばあちゃんかとおもってた」
 いまでもふとしたときに思い出す、わたしにとって特別な台詞です。このセリフは『おばあちゃんのかぼちゃパイ(ティモシーとサラの絵本)』(芭蕉みどり/ポプラ社)という絵本に登場します。屋根裏部屋で見つけた、おばあちゃんのアルバムを眺めながら、幼いサラとティモシーがこう言うのです。おばあちゃんにも自分たちのように、子どもだった時代があったのだということに驚きながら。
 わたしも幼い頃、ティモシーやサラと同じことを思っていました。学校の「センセイ」は最初から「センセイ」という存在で、「オカアサン」は昔から「オカアサン」で。彼ら彼女らにも、「センセイ」でも「オカアサン」でもない時間があるのだということ、さらに自分と同じような子ども時代があったなどとは——当時は想像することもできなかったように思います。ですから同様に自分自身のことも、ずっとこのまま永遠に「コドモ」なのではないかと、漠然と信じていたのです。時計の針が進めば20時がやがて21時になり、そうなればベッドに入らなければならないということは理解していましたし、今日の次に明日があることも、お誕生日の一年後には再びバースディケーキを食べられるのだということも、知っていました。それでもわたしが「センセイ」だとか「オカアサン」だとか「オトナ」だとか、そういう存在になるかもしれない可能性は、自分の中で、完璧に、完全に、排除されていたのです。「成長したら『オトナ』になるらしいけれど、わたしには関係のない世界での話かな」と、そんなふうに。不自然なほどに「オトナ」だとかそれに準じるなにかになることを自分のこととして受け入れられなかったわたしは、それではずっと子どものままでいることができたのかというと——まあそんなはずはありません。お昼寝をしている間にわたしは二十歳になり、2017年のわたしはさらに歳を重ねているでしょう。「わたしには『オトナ』なんて関係ないもん」などと言ったところで、勝手に流れゆく時間からしてみれば、「そんなことは知らぬ」という話なのです。年金を払いなさいと言われますし、選挙のおしらせもきます。それでは成人したわたしが「オトナ」になれたのかというと、それに関しては定かではありません。わたしはわたしでしかなく、これまで生きてきた時間を「コドモ」「オトナ」のふたつに明確にすっぱりとわけることなんて、うまくできる気が全くしないからです。そこで思いました。「コドモ」「オトナ」というものは、そもそも存在しないのではないかと。10歳だって30歳だって、80歳になったって、そこにいるのは「コドモ」「オトナ」「オバアチャン」ではなくて、ただ単に「わたし」なのではないかと。つい色々な肩書きに誤魔化されてしまいそうになるけれど、ぺろりと一皮剥がしてしまえば、そこには「わたし」や「あなた」がいるだけです。年齢を重ねれば「オトナ」と呼ばれるようになるけれど、本質は「わたし」のままなのです。なにかが変わったとすれば、それは「オトナになった」というよりかは「ほんのすこし変化して、ほんのすこし新しいわたしになった」という感じなのではないでしょうか。
 孫のティモシーとサラに「おばあちゃんになるって、どんなきもち?」と尋ねられ、おばあちゃんはこう答えます。「おばあちゃんは、おばあちゃんだけど、このしゃしんのころのきもちと、ちっともかわってないの。いまでも、がっこうにいってたころとおんなじよ」「あんたたちのように、かぜのようにはしりまわったりは、できないけど。きもちはいつも、かぜになれるのよ」

 ところで、この文章を2017年の——わたしから見れば未来のほんのすこしだけ「オトナ」な——わたしは、どのような気持ちで読んでいるのでしょうね。「過去のわたしは随分と青臭いことを考えていたものだな」なんて、感想を抱くかもしれません。過去の自分の文章がどうしようもなく拙く感じられて、顔を両手で覆うなんてことも、あるかもしれませんね。ごめんなさい、2017年のわたし。けれどそれも仕方のないことですよね。だって2017年のわたしにとって、このわたしも「わたし」なのだから。それにおそらく、精神的にはあまり変わっていないのでは……なんて言ったら怒られてしまうでしょうか。

 さて、そろそろ過去へと戻らなくてはならない時間が来てしまったようです。卒業してしまっているはずの2017年の『izumi』に記事を書かせていただくことができて、とても嬉しく思います。卒業だなんて、正直まだ実感がわいていないのですけれどね。それでは過去のわたしは、このあたりでお暇させていただくこととします。さあ、現在の——わたしからすれば未来の——わたしに、バトンタッチです。
 
自己紹介
数年前にいずみ委員をさせていただいていた者です。既に学生ではなくなった2017のわたしは、それとなく生きていると聞きました。それは良かったです。これからもそれなりに生き延びてくださいね。


※ちょうど3年前(2014年)の秋号特集が、「レトロな気分で」でした。


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