座・対談
「多様な視点で考える」温 又柔(小説家)

多様な視点で考える


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1.語り手を変えてみました

杉田
 温さんの作品を最初に読んだきっかけは、大学のレポートの課題でした。以来、色々な作品を読ませていただいていますが、最近『文藝』(2017年冬季号)に掲載されていた「空港時光」を読んで、私はこれが一番好きな作品だなと思いました。


 「最新作が一番好き」と言われるのは、作家にとってはかなり幸せなことです。

杉田
 私は登場人物の彼女たちと立場が違うからか、『来福の家』や『真ん中の子どもたち』に出てくる縁珠とかミーミーの抱えている悩みに共感するというよりも言い訳をしたい気持ちのほうが大きかったんです。それが「空港時光」で最初に大祐が「ふつうでわるかったな」と言ったときに、ようやく私達の視点を書いてもらえたと思いました。それまでの作品では温さんと重なる部分が多かったのに、今回、あえて私達日本人側というか、色々な視点で書こうと思ったのはなぜでしょう。


 素晴らしい質問ですね。私はデビューのときから、自分自身について書きたいと思ってきました。言葉とかアイデンティティといった、私自身が悩んできた問題について、日本の、自分以外の人たちに伝えたかった。それを物語仕立てでやりたかったので、自分のテーマを書くためには自分と似たような人物を設定する必要がありました。そして『真ん中の子どもたち』で、このテーマで等身大の語り手としては書ききったような気がしたんです。それで次は、「私達」のような存在を眼差している日本人の視点からこの問題を書いてみたかったので、「空港時光」の一話目では普通の男の子の視点からにしました。『来福の家』には縁珠の恋人の麦生という子が出てきますが、その麦生から見た「彼女たち」というのも書いてみたいと思ったんです。

杉田
 『来福の家』では麦生が何を考えているかわからなかったし、縁珠とは問題意識の共有ができていなかったのではと思いましたが、「空港時光」を読んだときに「もしかしたら麦生もこうなれたんじゃないか」と思いました。


 どちらも恋愛は破綻しているけどね(笑)。私自身ある意味「日本育ちの台湾人」で大多数の友達は日本人なので、作品を発表したときに親しい友達から「ごめんね」と言われたり心配させたりしてしまいました。でも私はみんながいて、受け入れてもらった。だから、そんな彼らから見た自分の立場を一度きちんと書いてみたいと思ったんです。「空港時光」は大祐の視点だけじゃなくてもっと別の世代やいろんな人の視点から、語り手だけを色々ずらして書いてみました。

杉田
 今回は視点が違うので、共感できる部分が見つけやすかったです。条件が少しずつずらされているからこそ、本当に問題なのは何なんだろうと考えたり。「空港時光」ではJessicaというアメリカ育ちの台湾人も出てきて、新鮮でした。


 同じ作者として、私がいて、「私のような人たち」がいる。それを少し条件をずらして書いてみたらどうだろう、私は日本で育ったけど、同じ台湾人でもアメリカで育ったらどんな生き方をしていたんだろうということをよく考えていたんです。Jessicaを出すことによって、日本育ちの台湾人との違いを感じ取ってもらうということがしたかった。テーマは同じだけど語り方を変えて、読者にとっての共感の部分を増やしていきたいという気持ちはありましたね。

杉田
 温さんと似たような方に読んでほしいという一方で、そうでない大多数の読者にも共感してもらいたい気持ちも?


 両方あります。自分を知ってほしい気持ちと、自分を知る相手のとまどいのどちらも書きたいんです。私も人と会ったときに相手が非日本的な名前だったら「この人の来歴は?」と考えることがあるので、その感覚自体を否定したいわけではないんです。私のような境遇の人に対して、いわゆるふつうの日本人がどんな気持ちで接するというか、どう感じるんだろうということも表現したいと思っています。

 

 

2.共感を模索する

杉田
 立場的な共感と違う「共感」ってどこになるんでしょうか?


 「共感」という言葉だとズレるかもしれないけど、「こういう私がいるよ」というメッセージに相手が振り向いてくれる形で書きたいんです。例えば縁珠は自分のことで精一杯な主人公で、自分の痛みを丸出しで相手にぶつけちゃうんですね。そうすると、相手は受け入れようとしてくれていたのに、許容量を超えて関係が構築できなくなってしまいます。作者としては自分の経験をさらすことで、読者が100%共感できなくても「そういう生き方もある」と考えられる入り口をつくりたいので、いろんな語り手を書きたいなと思っています。

杉田
 最初にお話ししたように温さんの作品を読むきっかけがレポートの課題だったので、それぞれの主人公が抱えている問題のどこなら自分は共感できるかを考えて読んでいました。私は屈託を抱えることなく日本語を使っていますが、二人を通して、言葉が家族とのつながりの中であるものだとか、妹のこととか彼女たちの祖父母の世代とかを、自分と照らし合わせて振り返ったりして。


 レポートって罪深いところがあって、それをきっかけに読んでもらえるのは嬉しいけど、真面目に向き合ってくれる人ほど正解を出そうと努力してくれるんですよね。私の作品に限らず、その授業の地場によって先生が良しとするような、たとえば私の本を読んで「だから多文化共生は大切です」と言わせたがる空気があると、学生自身の自由な読み方が制止されてしまいます。私は逆に、自分の感性を信じて「自分は全然主人公に共感できない」という内容のレポートを自分の言葉で書くような学生がいてもいいなと思うんです。

杉田
 正解はないということですね。


 先生はどう言うかわからないですけどね。私は「共感の模索」というのが一番大事だなと思っています。自分が外国にルーツを持っていなくても、中国語とか台湾の事情とか日本統治時代のこととかを何も知らなくても、「家族と一緒にいるときの自分」「友達といるときの自分」「上司といるときの自分」の言葉遺いは全部ばらばらで、その戸惑いみたいなものに近しいような、線引きの問題をめぐって何かを感知してくれたら、作者としては嬉しいですね。

杉田
 方言が近いかもしれないですね。友達とご飯を食べているときに実家から電話がかかってきて、急に方言に切り替わったりするような。


 そうですね。どちらも本人にとっては真実の姿ですよね。

杉田
 私は愛知県出身ですが、イントネーションはあまり標準語と変わらないんですね。でも語彙は方言だと気づかずに使っていると思います。気づかないからこそ、自分では違和感がなくて……。


 その方言を使っていない人から見てそこの部分が際立ってしまうところは、アイデンティティの問題に近いですよね。

杉田
 温さんが書かれているような話を単純に方言に置き換えることができないのは、言葉というものにどうしても国や政治というものが関連していて、家族の中にまでそれが食い込んでいるからなのかなと思います。「空港時光」に登場するアメリカ育ちのJessicaみたいな、日台中の三国以外の国の話もあってもいいなと思いますが、歴史の複雑さという点ではこの三国は独特なのかなとも思ったり。私がほかの国の事情を知らないだけかもしませんが。


 「日本語で書く台湾にルーツを持つ作家」として、日本と台湾の歴史とか、中国語の歴史といった絶対条件的なものってあると思うんです。中国語といえば中国と台湾の関係もあるし、おじいちゃんおばあちゃん世代の日本語もある。やはり日本で育った台湾人としてそこから目を背けてしまうと、自分と日本語の向き合い方が不誠実になってしまうなという思いがあります。そして、そういうものを全部すっ飛ばして、いわゆる普遍的な個人と言語の関係が別の条件下ではどういうふうに見えてくるかということも、考えていかなければと思います。垂直的に自分が使っている言語とかの歴史性を探求したい気持ちと、日本に限らず東アジアや英語圏まで水平的に世界のなかで自分のような存在はどういうものなのかという……それらがクロスするところでやってみたいなというのが、今の私の目標でもあります。


 

 

3.「文学」を考える

杉田
 私は普段は文学と呼ばれるものより、ライトノベルやエンターテインメント小説を多く読んできたので、文学を書かれる人はすごく目的意識があるというイメージが自分の中にあります。エンタメは楽しませることが第一、文学はテーマを伝えることが第一のような。
 



 杉田さんがしっかりお考えになっているのが伝わります。「面白く読ませる」ってすごく大事なことだと思うんです。ただ「面白さ」以上に何か読者に対して突きつけるような、単に面白がらせないでちょっと意地悪もするような、そういうものも含まれたものを文学というふうに感じとっているのかな。

杉田
 文学にも面白い作品はあるのですが、面白さの皮をかぶっているような感じがするんです。温さんが「物語仕立てでやりたかった」とおっしゃっていたのが、そこかなと。


 今でも私の課題ではあるんですけど、「こう書けばここでみんな泣くだろう」みたいな、予定調和的な物語の流れがありますよね。文学に限らず映画とかでも。私の場合、「日本で育った外国の人の切なさ」みたいなものを書く時に、「ほら、切ないでしょ? ここで泣きな」みたいな書き方をしてしまうと、気持ちが悪いんですよ。

杉田
 その部分だけが印象に残ってしまうというような……。


 そうなんです。同情してもらいたいわけではないし、それだと「大変だったんだな」で終わってしまいます。きっと、それは文学じゃないんです。「大変」以外の、よくわからない感情を読者が抱くくらいの曖昧な部分も含めないと文学として成り立たないから。だから、小賢しくスラスラ書いていたらいけないのだと思っています。
 大学時代の恩師に、「自分たちのことについて日本の大多数の人は知らないから、この生い立ちを素材にした小説を書きたい」と相談したことがあるんですね。先生が「書いてみたら?」とおっしゃってくださったので、それで書いてみました。書きあげた原稿を先生に読んでもらったら、「温ちゃん。人に本当に伝えたいのなら、泣き言を言っていたら駄目なんだよ。泣き言を言えばみんな『ああ、可哀想だったな』と同情してくれるけど、でもそこで止まっちゃう。そういう人が生きてきた痕跡や気配のようなものをきちんと文章の細部に住まわせないと、それは文学じゃない。あなたは小説を書きたいの? それとも同情されたいの? ちゃんと考えて」と言われて。それで「同情されたいわけではない」と思って、気合を入れ直しました。

杉田
 確かに、同情はどの作品を読んでいても感じませんでした。


 よかった。

杉田
 実際に彼女たちのような人がまわりにいたとしたら、どうしていくのが正解なのか、そもそも正解はあるのだろうかとずっと考えています。


 それは本当に、日本人側と非日本人側の大事な部分です。私も自分の痛かったこととか寂しかったこととかを書きたいけど、それを書くことによって目の前の人との関係を断絶させたくはない。それを書いてしまって、みんなが離れていってしまうのが一番嫌だから。「こういうことがあったけど、そんな私も含めてこれからもよろしくね」と、そして、読んだ人が「知らない間にやっちゃったな。でもこれからもよろしく」と思える回路みたいなものを作品の中に埋め込みたいなと思っています。

杉田
 温さんの作品を読んでいて感じたのは「線を引かないでほしい」ということです。ふつうかどうかって無意識に線を引いているところがやっぱりあるけど、それで分かった気になる「規定線」として引くのは危ないなと。


 「ふつうと言うな」と言いたいわけではないし、「私をふつうと認めろ」という主張でもない。私も多分、人のことをふつうかどうかと判断しているところがあるし、相手に「国境線なんてないよ。何も気にしないで仲良くしてあげる」と言われても、それはそれで「いや、線はある」と思います。「線がない」という主張をこの本ではしていますが、でも「線はない」という主張が生まれること自体「線がある」ことを前提としているので、そこを跳び越えて突然国際化とかグローバルとか言われても、リアリティがないですよね。おっしゃるように、「いま私達はどう捉え合っているのか」を語りあえる関係とか、「よくわかんないけど、いま一緒にいることが楽しいね」みたいなことを感じられる読後感は作りたいなと、すごく思っています。論文とかレポートはもっと結論を出さないといけないのかもしれないけど、文学は答えを出したら死んでしまうようなところがあるので、そもそも正解は出せないんですよね。

杉田
 正解は出せないけど考え続けていこう、みたいな。


 そうそう。私の本に限らず、考えるという動きそのものを促進させるために文学はあるのではないかと思います。


杉田
 エッセイのときはどうですか?


 エッセイのときは、もう少し自分の思考の過程を明晰に書ききりたいので、書き方が違いますね。自分の思考の段階を読むことによって私がどう歩んできたのかを一緒になって考えてもらいたい、というのがエッセイです。物語の場合は、思考の段階をすっ飛ばして自分がいる場所から自分にとっての世界の見え方を提示して、作者が提示した世界観を読者の世界観と重ね合わせて楽しんでもらえるようにしたいと思っています。

杉田
 エッセイと物語、両方の形式で書こうと思ったのは何故ですか?


 自分の言語的な来歴を素材とした小説を書くためには思考を徹底的に整理しておく必要があると感じました。エッセイを書くことはそのためにとても役立ちました。同じ素材を扱いながらもそれを物語として味わいたい人もいれば、ほぼ作者と語り手が重なっている状態の「私」が語っていることとして読みたいという人もいるので、そういう読まれ方の違いがあることは自分にとって結構大事なことでしたね。


 
 
P r o f i l e

温 又柔(おん・ゆうじゅう)
1980年、台湾・台北市生まれ。3歳の時に家族と東京に引っ越し、台湾語混じりの中国語を話す両親のもとで育つ。
 2009年、「好去好来歌」ですばる文学賞佳作を受賞。11年、『来福の家』(集英社、のち白水Uブックス)を刊行。13年、音楽家・小島ケイタニーラブと共に朗読と演奏によるコラボレーション活動〈言葉と音の往復書簡〉を開始。同年、ドキュメンタリー映画『異境の中の故郷——リービ英雄52年ぶりの台中再訪』(大川景子監督)に出演。15年、『台湾生まれ 日本語育ち』(白水社)を刊行。同書で第64回日本エッセイスト・クラブ賞受賞。CD付作品集『わたしたちの聲音』(SUNNY BOY BOOKS)も発売中。

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