Essay 海外の文豪作品を読もう
古典は手にしたときが“新刊”

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中町俊伸(光文社古典新訳文庫編集長)
 

古典は手にしたときが“新刊”

 今からちょうど35年前、大学生になりたてだった私が、いまこうして大学生に向けて読書のススメを書いているなんて、当時は想像すらしませんでした。4つ上の兄はいわゆる文学青年で、京都での学生生活から帰省するたびに高校生の私に「これはおもしろいよ」「この本は読んだほうがいい」「絶対読むべき」と勧めてくれたのが、「海外の文豪の作品」でした。ドストエフスキー、トルストイ、スタンダール、バルザック、ゾラ、ディケンズにトーマス・マン……。当時はまだ「教養主義」という言葉が力をもっていて、これくらいは読んでおくべきということで、少々無理をして読んだものです。まあ、私の昔話はこれくらいで。
 学生生活では授業はもちろん、サークル活動や友人との付き合い、映画や芝居、スポーツ観戦などやりたいことがたくさんあって、またミステリーをはじめ現代作家の面白い小説も多数ありますし、ゲームやSNSなどネットに時間を使うから、なかなか古典を読む機会がないのが実情だと思います。
 そんななかで、なぜ古典を読むのか。教養が身につく、ためになるとか世間的にはいろいろ言われますが、ひと言でいえば「おもしろい」からです。「おもしろい」という言葉にはいろいろな意味があります。物語の展開にワクワク、ドキドキする。主人公の言動に共感も反発も含めて感情が揺さぶられる。スケールの大きな物語の世界に触れられる。時代や社会の状況は異なるけれど、人間を描いているのは現代の小説と同じですから、自分に合った小説が必ず見つかるはずです。
 たとえばドストエフスキーの『地下室の手記』。世間から軽蔑され相手にすらされない一人の男が主人公です。自分を笑った世界を笑い返し、見返すために自意識という「地下室」に籠った男の手記という体裁の小説です。完全な引きこもり。世の中を憎み、怒り、攻撃し、そして後悔の念からもがき苦しむ。「ここに描かれているのは自分ではないか?」。自分の存在意義、存在価値に対する強烈な不安。そしてこの「自意識」を手がかりに、金貸しの老女を殺害してしまうラスコーリニコフが主人公の『罪と罰』を読んでみるのもいいでしょう。
 あるいはトルストイの『アンナ・カレーニナ』。たしかに人妻との不倫小説、恋愛小説ではありますが、もう一方の主人公である若い地主貴族リョーヴィンが新しい農場経営の理想に燃え、農民とともに草刈りに没頭し汗を流す姿は感動的です。立場を超えて共同作業をする、地に足を着けた労働で世の中を良くしようとする青年の姿がここには描かれています。もちろん、年上の女性アンナとの恋愛に突き進むヴロンスキーの苦悩に、またアンナの生き方に共感、あるいは反発する読者もいると思います。
 また、貧しい家に育ったがゆえ立身のため僧職に就き、金持ちへの反発と野心から人妻レナール夫人に近づくジュリヤン・ソレルが主人公の『赤と黒』。人妻を踏み台に社交界でのし上がり、野望が達成されようとしたところ……。ドラマティックな展開に衝撃の結末!と文庫の紹介文で煽りました(笑)。コンプレックスをバネに立身出世しようとする若者は、いつの時代でもエネルギーと情熱に溢れています。
 百年以上前から世界中で多くの人が、時代や社会的背景が異なっても“自分かもしれない"主人公や登場人物に想いを寄せ、自分自身を考える、見つめる、そういうきっかけを与えてきたのが文豪の古典です。だからこそ、いま読んでも新鮮なのです。
 典新訳文庫は、「いま、息をしている言葉で、もう一度古典を」というモットーに2006年9月に創刊されました。いわゆる教養としての古典、ありがたいものとしての古典ではなく、同時代の作品と同じように楽しんでもらいたい。読み進めるうえで躓かないよう、当時の社会の仕組みや地名ほか歴史上の固有名詞、また背景の知識として訳注を付けているのも、そういう配慮です。
 「本が好き」という読者はすでに読み始めているかもしれませんが、自分の学生生活を振り返ると「本好き」が、いちばんしっくりきます。映画化、舞台化されている、友達が、先輩がいいと言っていた。そういうきっかけで十分です。たまには古典を読んでみるか、それくらいの気持ちで手にしてみる。合わないと思ったら中断してもいい。なかなか物語が始まらない長篇もありますが、そこは適当に流し読み(飛ばすのはマズイので)する。
 「古典は手にしたときが“新刊"」。これで行きましょう。
 

中町さんおすすめの海外作品


  • 鴨長明〈蜂飼耳=訳〉
    『方丈記』
    光文社古典新訳文庫/本体640円+税
    「ゆく河の流れは絶えずして……」。誰もが知っている出だしの日本中世を代表する随筆『方丈記』ですが、教科書レベルで習った“無常観"だけでは捉えきれない作者の人間くさい姿が感じられるよう工夫しました。

  • ホーフマンスタール〈丘沢静也=訳〉
    『チャンドス卿の手紙/アンドレアス』
    光文社古典新訳文庫/本体880円+税
    言葉はウソをつく。軽い。限界がある。このことを強烈に意識したがゆえに筆を折った若き文豪の代表作です。誰もが情報発信できるようになったSNS全盛の今だからこそ、特に若い読者はこの問題意識を共有できるのでは。
   
P r o f i l e

中町 俊伸(なかまち・としのぶ)
早稲田大学政治経済学部卒。光文社に入社後は、広告部、女性自身編集部、学芸編集部、バーサス編集部を経て、古典新訳文庫創刊の2006年から翻訳編集部勤務。2016年11月から編集長。


 

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