著者からのメッセージ 今こそ、本を読もう(2)
川越 宗一

人生も旅も本とともに

川越 宗一Profile

著書紹介


『熱源』
文藝春秋/本体1,850円+税
故郷を奪われ、生き方を変えられた。それでもアイヌがアイヌとして生きているうちに、やりとげなければならないことがある。北海道のさらに北に浮かぶ島、樺太。人を拒むような極寒の地で、時代に翻弄されながら、それでも生きていくための「熱」を追い求める人々がいた。明治維新後、樺太のアイヌに何が起こっていたのか。見たことのない感情に心を揺り動かされる、圧巻の歴史小説。
 ぼくの本棚は、すぐめちゃくちゃになる。
 なので年に一回くらいのペースで整理をしている。ごそっと本を出して、何となく分類して差しなおす。最近では緊急事態宣言下のゴールデンウィークに、これからどうなるのだろうと思いながら本を掻き出した。
 濃淡あれど、だいたいの本にについてなにがしか覚えがある。面白かったからまた読み直そう、読みにくかった、こんな本買ったっけ、まだ読んでないなこれ。などなどと考えながら選り分け、本棚に差しなおしていった。
 そうこうしていると、キェルケゴールの『死に至る病』が出てきた。岩波文庫版で、表紙には「後にくる実存哲学への道をひらいた歴史的著作でもある」とある。大学生のころ、当時のぼくなりに一念発起して生協で買ったのだが、難解さに放り出してしまった本だ。以後も何度か挑戦し、そのたび挫折、いつのまにか買ってから二十年くらい経っている。
 パラパラとページをめくった。二六ページと二七ページの間に、二〇一三年の日付が入ったミスタードーナツのレシートが栞のごとく挟まっていた。最後の挑戦についての残酷なまでに克明な記録であった。

 ぼくは本について「ずっと待ってくれるのがいいところだな」と思っている。キェルケゴール氏への言い訳も多少含むし、「今こそ本を読もう」という本稿のお題からも離れてしまうのだが、偽らざる実感でもある。
 なにせ本は、劣化しない。紙の本であれば正確には経年の傷みはいろいろ起こりえるが、ひとりの人生程度の時間で溶けてなくなることはないくらいには、堅牢だ。普及版である文庫本でも保存に特段の注意を要さない。冷暗所に置くとか、清浄な水に漬けておく必要があるとか毎日かき混ぜる必要があるとか、そんな必要はまったくない。
 中身に至っては不変である。内容が古びるのは観測者たる我々の視座が動いたからで、地球そのものが動けば日月星辰の見え方が変わるのと同じだ。よしんば古びてしまっても、本は過去の記録として別の光を放つ。
 ただし、そんな本も水と火には弱い。うっかり本にコーヒーをこぼしてしまわぬよう、また本を火に投じるような社会にならぬよう、ぼくたちは細心の注意を払わねばならない。
 データとその閲覧権で構成される電子書籍も、以上の特徴はだいたい共通する。堅牢さは紙以上であろうし、紙の本で版を改めるとき以上の修正は文化的に許されないであろう。まつわる機器すべてが水に強いとは聞かないし、紙の本が焼かれる社会で自由なダウンロードができるとは思えない。
 ひっくるめて、水と火さえなければ、本は持ち前の耐久性を存分に発揮できる。石の上にも三年というが、ぼくの『死に至る病』は本棚の中で二十年、待ってくれている。

 当たり前のことだが、まず本を選ばなければ読書が始まらない。他人に強制されたらうっとうしいことこの上ないが、自らの判断で本を手に取るという行為は魂が自由であることの確認であり、幸福追求権の行使であり、そんなおおげさに言わずとも、本選びは楽しい。
 出不精のぼくでも、ときおり旅行にいく。心を躍らせながら、かばんに詰めていく本を数冊選ぶ。すべて読んだことはまだない。キェルケゴール氏がこのことを知ったら「彼ならば、さもありなん」と強くうなずくだろうが、あからさまな言い訳をすると、人生は旅である。そのお供にぼくは『死に至る病』を選び、旅はまだ終わっていないのだ。

 最近、おいそれと旅行にもいけなくなってしまった。
 感染症がたくさんの人を苦しめ、また未病の人々の足に絡みついている。手足を縛られたようなぼくらの社会は、さまざまな献身と自制によって何とか保たれている。本稿執筆の前日に全国一律の緊急事態宣言が解除されたが、まだ楽観を許さない。
 けれど、この状況はいずれ終わる。目先の日々にじゅうじゅう留意しなければならないけど、このうすら寒い静寂は永劫ではない。いずれ自由に出歩けるようになる。歩けなくなった人がいれば、みなで支えればいい。そのためにぼくたちは社会を営んでいる。
 そして旅めいた人生は続く。旅には本があるといい。なら、持っていく本を選ぶ時間が必要だ。それはいつでもいいし、それこそ今でもいい。再言するが本は頑丈だ。ずっとついてきてくれる。頼もしいことこの上ない。
 そんなことを考えながら、読了していない本からぬけぬけと一文を引く。

 ——死に至る病とは絶望のことである。(キェルケゴール)

 
P r o f i l e

写真提供:文藝春秋

川越 宗一(かわごえ・そういち)

1978年鹿児島県生まれ、大阪府出身。京都市在住。龍谷大学文学部史学科中退。2018年『天地に燦たり』で第25回松本清張賞を受賞しデビュー。短篇「海神の子」(「オール讀物」12月号掲載)が日本文藝家協会の選ぶ『時代小説 ザ・ベスト2019』(集英社文庫)に収録。19年8月刊行の『熱源』(文藝春秋)で第10回山田風太郎賞候補、第9回本屋が選ぶ時代小説大賞受賞、第162回直木賞受賞。


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