美の動きを捉える

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〜現代短歌を携えて〜

“——私たちの人生はどうしようもなく、この時代に閉じ込められてる。だけど、文字を読む時だけはかつていた偉人達が、私に向かって口を開いてくれる。その一瞬、この世界から抜け出せる。文字になった思考はこの世に残って、ずっと未来の誰かを動かすことだってある。そんなの……まるで、奇跡じゃないですか。”

『チ。—地球の運動について—第3集』
(ビッグコミックス)より

 幼い頃から、本に書かれた言葉が好きだった。いろんな物語が詰まった本棚の前で長い時間を過ごした。映画館もない、美術館も、マクドナルドも電車もない離島で育った。そんな僕を支えていたのは、おばあちゃんが集めていた小説のある本棚。そして母親が惜しみなく買い与えてくれた沢山の少年マンガに書かれた力強い言葉だったように思う。冒頭に引用した文章を読んだ時、ひどく共感したのを覚えている。ぼくを作ってきたのは、紛れもなくマンガや小説に刻まれた感動だったから。運転免許も電車もない島で、どこへでも飛んでいけたのは、奇跡にも近い文字の力だった。

 長い間文字を見ていると、しばしばそれが輝き方を変えることに気がついた。何万字にも及ぶ物語のなかの文字たち。これらはパラレルワールドすらも作ってしまう。どんな場所に閉じ込められていても、物語の中でならどこまでも歩くことができる。この世界は子どもの頃からの僕の居場所だ。

 もうひとつ、大学に入ってから出会った短い言葉には、また小説とは違う質の光が宿っていた。現代短歌の短い枠に収められた文字は、小説の何百倍の速度で心に入ってくる。そして、凝縮された文字が心の奥底で爆発するのだ。それは時として、世界を一変させてしまうほどの体験になる。

  東京は光の海、と聞きました 電車の音が波のようです/初谷むい

 この短歌を見てからは、街の喧騒を波のようだととらえるようになった。ふとしたとき耳をすませば聞こえる電車の音。ノイズに過ぎなかった音の粒は、この短歌を読んでからうつくしいものへと変わったように思う。

  海からの陽ざしを髪にふくませて前世のあなたは火だったろうか/道券はな

 逆光のなかだろうか、「あなた」の姿が煌めいて見える。それを火だと捉えている。きっと次に海を訪れた時、煌めくこの映像を思い出して、目の前の人の前世に想いを馳せるだろう。

 短い詩の文字たちが力を持って、こんなにも胸に響くのは、それが「美」そのものだからだ。エルネスト・ネトの言葉を借りれば、美とは『私たちの活動の背後に満ちている影のようなもの』なのである。美が生活の影ならば、生活を綴じ込めた短い詩のなかには美そのものが詰まっている。

 暮らしの背後に「美」があるのだという考え方は、足取りを鎮め、拙速になる思考を留保してくれる。薄くて見えない、けれども確かにそこにゆらめいている影を見つけるためには、目を凝らす必要があるからだ。なにも遠いものではない。むしろ、近すぎるほどに近い。美も同様に、命が動い ている限り消えない影なのだ。生活の合間、目に映る全ての一瞬に、美は宿っているはずなのである。

 そう言われても、美の存在を実感できない人がいるかもしれない。そこで、芸術だ。美とは感じるだけでは過ぎ去ってしまう曖昧な影。芸術はそれを際立たせ、思い出して深く味わうために創られた人類の発明なのである。そして思うに、短歌という芸術は美を捉えるのに向いている。もちろん取り組む芸術は、音楽でも絵画でも構わない。しかし短歌ならば、あなたが感動した瞬間に書き残せる。裏紙にでもスマホのメモにでも書くことができる。そうすれば、消えゆくだけだった美しい風景や感情が、短い詩の形で生まれてくる。さらに詩を手に取ることは、絵画や音楽にはないひとつの強みがある。

 絵画では感情の動きは写せない、音楽では流れゆく風景が写せない。ここまで短歌を推してきたのは、短歌が生活に満ちていた揺らめく「美」の動きを捉えるのに適した芸術であるとつよく信じているからである。短歌ならば、その揺らぎを掬い取ることができる。

 文字によって捉えられた、あなたの生活に満ちていた「美」。過去に書いたそれが、数年後のあなたの心を震わせる。文字にすれば、再度その美しい感情の動きと出会える。それは冒頭の引用文にも近い、文字の持つ奇跡の力だ。「かなしい」「うれしい」だけでは表せない日々の感情の動き、「きれい」「きたない」だけでは全く説明できない目の前の風景。それらを掴んで離さない、短い詩に込められた文字の力。出会って以来、僕はそのうつくしさにずっと魅了されている。

  目に映るすべての景色が詩なんだよわかるか、なぁ、火ぃ貸してくれるか/小坂井大輔
 
 
P r o f i l e
末永 光(すえなが・ひかり)

岡山大学大学院自然科学研究科所属。専攻は昆虫の行動遺伝学。最近は、家で映画をよく観るようになった。一人暮らしをしているアパートのキッチンが狭いのが悩み。

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