情動と理性の相克

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三島由紀夫

三島由紀夫
『鹿鳴館』
新潮文庫/定価737円(税込) 購入はこちら >

 1925年に誕生、1970年に割腹自殺を遂げた三島由紀夫は2020年に生誕85周年、死後50周年を迎えました。生前彼は、小説に限らずありとあらゆる表現手法に挑戦し、各分野でしっかりと名作を残しています。今回、限られた誌面においてどの作品を取り上げようか非常に迷いましたが、私の一押しの戯曲「鹿鳴館」について取り上げます。戯曲とは演劇の上演のために執筆された脚本及び、上演台本のかたちで執筆された文学作品を指します。演劇を踏まえた作品ですので、通常の小説でおなじみの情景描写・人物説明等はなく、若干のト書きと登場人物の台詞が表現手段となります。実際の舞台はともかく、文学としては制限が多いと思われる戯曲形式ですが、この「鹿鳴館」では三島が形式の特性を使いこなし、彼独特の耽美でありつつ生々しい世界観を生み出しているのです。
 ところで、鹿鳴館とはどのような場所だったのでしょう。鹿鳴館は、明治政府が欧米列強と結んだ不平等条約の修正を求める中で、誕生しました。政府は鹿鳴館において西洋文化を再現し、表面的に列強国に追いつこうと試みました。しかし、この様子はアジア人の陳腐な西洋風コスプレのようだと嘲笑を受け、国内外で政府へのバッシングが広がりました。この一件については、ビゴーが描いたお猿の風刺画が有名ですよね。当時の西洋人の目には、日本人及び明治政府は無理して背伸びをしている子どもの様に映ったのかもしれません。また、「西洋風」になりきった人々や、民権を無視し各々の利権に基づいて行われていた政治には、欺瞞と虚構のオーラがこびりついているように感じられます。そんな鹿鳴館を舞台にして繰り広げられるのは、ギリシア古典劇を彷彿とさせる運命論的悲劇です。主人公の朝子は芸者出身の美女で、現在大物政治家の景山と結婚しております。彼女は友人の娘さんが婚約するに当たって仲人役を頼まれます。朝子は頼みを承諾しますが、後にそのお嬢さんの婚約相手とは、自分が芸者時代に自由党(反政府勢力)のリーダー・清原との間に生んだ息子だと知ります。母子再会の感動はつかの間、朝子は清原が鹿鳴館の夜会においてテロを計画していること、久雄が鹿鳴館において、憎き父である清原を殺そうとしていることを知ってしまいます。朝子はかつての恋人の清原と、我が子久雄両方の命を救わんと一計を案じますが、朝子の計画を聞いていた女中が事態を景山に伝えてしまい、物語は思わぬ方向へと進んでいくのでした……この愛憎劇は、三島お得意の豪華絢爛な文章によって存分に盛り上げられています。上述のように、戯曲では台詞が唯一の文章表現ですが、三島にとってはなんのその。むしろ台詞だけだからこそ、些細な言葉にまで一級の美しさを求めることができたのかもしれません。本文では朝子をはじめ女性陣の台詞は常に色気と気品があり、鹿鳴館に君臨する上流階級のご夫人方の様子が脳裏に浮かんできます。男性陣についても、些細な言い回しや語尾の中に人柄や話し相手との関係性がしっかり込められており、人物の個性が生まれています。このような美しさと確固たる描写力は、三島が単語一つ一つ、そして全ての登場人物に対して丹念な心遣いを行った結果の賜物だと思います。
 さて、華麗な文章に支えられながら展開されるのは、「情動と理性の相克」です。自らの利害を超えて愛のために奔走する朝子や、自らの理想を実現せんと立ち上がる清原や久雄、それに対して自らの情動を理性によって制御しながら、じりじりと朝子たちの計画を阻まんと企む景山、作品内では様々な情動と理性の戦いが繰り広げられます。しかし、単純に2つの感情の相克と言いきるのは浅はかでありましょう。清原と景山の敵対に注目すると、一見政敵同士が繰り広げる理性の戦いに思えつつも結局は朝子を巡っての情動の戦いのように思えます。特に景山については、常に理性的で発言にゆとりがありますが、その行間からは凄まじい嫉妬と復讐心の欲が漏れ出ています。虚飾の仮面の下に隠された人間の情動の力強さと生々しさは、対照的に人間の理性の限界を読者に伝えているように思えます。さらに興味深いのは、本作が実に精密なプロットに則って展開されていることです。登場人物の動きは三島の定めた運命にぴったりと合わさるかの如くであり、明白な起承転結は、三島の構成力の高さを物語っています。「戯曲」ということで、三島は自分が整えたこのプロットを、役者たちがどのように色づけし、乗り越えて昇華させていくのかを楽しみにしていたのかもしれませんね。
 三島作品はどれも解釈の宝庫です。皆さんも、感性と理性を組み合わせた考察を行ってみてはいかがでしょうか。

 
P r o f i l e
岩田 恵実(いわた・めぐみ)

名古屋大学3年。とある韓国アイドルグループにハマりました。アイドルがいかに人を支えているかがわかるとともに、「推しが尊い」という概念を学びました。

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