Essay 更級日記 平安時代も「推し」!?

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 最近では「推し」という言葉も流行し、何らかのオタクであることに恥じらいを持つ人は少なくなった。しかしこの「オタク」、実は千年以上前から日本に存在していたことをご存知だろうか。
 それは菅原孝標女による古典文学『更級日記』で発見できる。菅原孝標女は田舎で生まれ、姉や母の会話を聞いて育つ。娯楽の少ない平安時代だ、姉たちの会話はもっぱら物語についてのものだった。以下は『更級日記』の序文を私が意訳したものである。

 私は東海道の果ての国、常陸よりもっと奥にある、上総国で育った。当時、私はずっと祈りを捧げていた。
「世の中に物語ってものがあるらしい。なんでもするから、どうかそれを読ませてくださ〜〜〜い!」
 暇な昼間や夜。私の姉や継母は、昔読んださまざまな物語、そして光源氏の話について語っていた。その話を聞いているだけで、もう読みたくて読みたくてしょうがない。でも残念ながら、彼女たちは物語のすべてを暗記しているわけじゃない。どうにかして全文を読みたい。
 少女だった私は、どうしても物語を読んでみたかった。その結果、私は、自分と同じ背丈の薬師仏像を彫った。
 手を清め、だれもいない時間帯に、薬師仏像を拝むためこっそり仏間へ入った。
「お願いですから私を都会に行かせてください! そして京にたくさんある物語を、全部読ませてください!」
 私は一心不乱に額をついて祈った。
すると十三歳の時、なんと父の仕事の関係で上京することになったのだ!

(『更級日記』本文意訳)

 どうですか、オタクそのものじゃないですか。そう、実は『更級日記』とは、田舎に住むある少女が、「なんとかして『源氏物語』を全巻読んでやる」という執念のもと、仏像(!)を自ら彫り、その結果ちゃんと『源氏物語』を全巻読めるようになった……という、まさしく『源氏物語』という「推し」のために生きていた作者が綴った日記なのだ。
 この仏像を彫って祈るエピソードなんて、「平安時代にもオタクっていたんだ……」という感想を持ってしまう人も多いのではないだろうか。
 平安時代の『源氏物語』オタク日記。それが『更級日記』なのである。
『更級日記』のページを捲れば、『源氏物語』を読むことができた菅原孝標女が「将来は光源氏みたいな人と結婚したいな〜!」と思うようになる場面が登場する。将来についての妄想を繰り広げる菅原孝標女。「将来は山奥に住んで、一年に一度くらい光源氏のような貴公子に通ってもらって」と結婚生活への期待を膨らませていた。
 しかし実際結婚してみると、彼女の夫は菅原孝標女が妄想していたような相手ではなかったらしい。こんなふうに彼女は結婚生活を述懐しているのだ。

 結婚後は、特筆すべきこともない。雑用に追われ、物語のこともすっかり忘れていた。その頃になると、私は日々まっとうに生活を送ろうと思うようになっていた。
「ああ、どうして私はこれまで物語ばっかり読んで、時間を無駄にしてきたんだろう……。仏道修行なり参拝なり、もっと有意義なことに時間を使えばよかった。昔、夢見ていた将来設計、あんなこと現実の世界に起こるわけがなかったんだ。光源氏みたいな方、この世にいるわけがない。薫が宇治の田舎に女性を隠すなんて、あり得ない。それが現実の世界なんだ。私、狂ってた……」
と、思った。

(『更級日記』本文意訳)

 まるで現代のオタク少女がアラサーになり、現実を見つめた後のような記述である。これが平安時代の日記だというのだから、驚いてしまう。私は『更級日記』をはじめてちゃんと読んだとき、「じ、自分が書いたのか!?」と思うほど共感してしまった。
 さて、彼女は果たしてどんな結婚生活、そして晩年を迎えるのか? それは『更級日記』を読んで確かめてみてほしい。今回紹介したのは私の本文意訳なので、ぜひ図書館で『更級日記』を借りてもらい、原文と一緒に楽しんでもらえたら幸いだ。
 ひとりのオタク少女が、物語に目覚め、そして物語に耽溺し、結婚を機に現実の世界へ帰ろうとする人生を描いた『更級日記』。むしろ現代だからこそ共感できる人も多いのではないだろうか。平安時代というと、『源氏物語』のように恋愛絵巻のイメージが強いかもしれないが、『更級日記』を読むと、現代と同じように「推し」に夢中になっていた人もいたんだな……としみじみ思う。今こそ知ってほしい『更級日記』、ぜひ彼女のオタク人生を一人でも多くの人に読んでもらいたい!
   
著者紹介
三宅 香帆(みやけ・かほ)
作家・書評家。1994年生まれ。高知県出身。京都大学大学院人間・環境学研究科博士前期課程修了。大学院時代の専門は萬葉集。大学院在学中に書籍執筆を開始。著書に『人生を狂わす名著50』(ライツ社)、『文芸オタクの私が教える パズる文章教室』 (サンクチュアリ出版)、『副作用あります!?人生おたすけ処方本』(幻冬舎)、『妄想とツッコミでよむ万葉集』(大和書房)、『(読んだふりしたけど) ぶっちゃけよく分からん、あの名作小説を面白く読む方法』『女の子の謎を解く』(笠間書院)、『それを読むたび思い出す』(青土社)、『(萌えすぎて)絶対忘れない! 妄想古文』(河出書房新社)。ウェブメディアなどへの出演・連載多数。

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