Essay「言葉の力で日常を超える」

特集「異世界へのとびら」記事一覧


市田 泉(翻訳家)
 

市田 泉 Profile

「ファンタジー」と聞いて、どんな物語をイメージしますか? 筆者はトールキンの『指輪物語』をきっかけにこのジャンルにはまった十代のころ、ファンタジーといえば中世ヨーロッパ風の異世界で剣士や魔術師が活躍する物語というイメージを持っていました。けれどもその後、数々のファンタジーを読み、最近は自分でも翻訳するうちに、このジャンルの奥の深さ、作品の多彩さに触れ、ますます魅力を覚えるようになりました。たとえばここ数年、筆者が訳したファンタジーはといえば——
 一枚のドアがいろいろな場所に通じている魔法の家で暮らすことになった、家事能力皆無な少女の物語(ダイアナ・ウィン・ジョーンズ『チャーメインと魔法の家』)とか、パリに似た架空の町を舞台に、死者にまつわる不気味な出来事が綴られる連作(タニス・リー『死せる者の書』)とか、文学好きな青年が憧れの異国で超自然の存在と関わるはめになる物語(ソフィア・サマター『図書館島』)とか——筋立ても雰囲気もさまざまです。
 このように、ファンタジーの内容がヴァラエティに富んでいるのは、考えてみれば当然と言えます。ファンタジーとは科学で説明できない不思議な出来事を中心に据えた物語であり、そうした出来事を(ときにはそれが起こり得る世界ごと)生み出すのは豊かな想像力にほかならず、人間の想像力とは、あらゆる方位に向けて働くものなのですから。
 とはいえ、想像力の豊かさだけで優れた作品が生まれるはずもありません。奇想天外な作風のダイアナ・ウィン・ジョーンズは、勢いに任せて第一稿を書き上げたあと、第二稿では細心の注意を払って内容を整えていくと述べています。また、美しい文章で異世界の風景を描き出すソフィア・サマターは、第一長篇の推敲に十年もの歳月をかけたと語っています。想像力が自由に飛翔すればするほど、それを適切な言葉で捉え、物語の形にまとめ上げるには、より高い技術が求められるに違いありません。そうやって書き上げられた物語を一語一語辿っていくことで、いつしか作者が到達したイマジネーションの高みに連れていってもらえること、それこそがファンタジーを読む最大の喜びではないでしょうか。
 たとえば『指輪物語』の世界には、泣きたくなるほど澄み切ったエルフの領土があり、背筋が凍るほどよこしまな悪の気配が漂います。物語の鍵となる魔力を秘めた指輪の背景には途方もなく長い歴史が横たわり、その指輪を巡って、欲望と高潔さのせめぎ合いがさまざまなレベルで繰り広げられます。これらは決して絵空事ではなく、人間のあらゆる思いや営みのエキスを抽出し、美しい形や雄々しい形、ときには恐ろしい形で結晶化したものなのです。ちょうど優れた絵画や音楽が人間の精神に不可欠なように、ファンタジーが見せてくれる日常を超えた次元の存在は、ときに人の心を力強く支え、ときに言葉もなく圧倒される喜びを教えてくれます。
 さて、そんなファンタジーを日本語に翻訳する際には、少し特殊な気遣いが必要になります。ファンタジーでは世界を丸ごと作り上げることも多いため、その世界を壊さないよう、文体や漢字の使い方、キャラクターの口調、固有名詞の読み方、独自の用語の訳し方など、よく考えて決定しなくてはなりません(キリスト教に似ているけれど微妙に異なる宗教の出てくる作品を訳したときは、キリスト教の雰囲気を残しつつ、現実には存在しない聖職者名の訳語をひねり出すのに苦労したものです)。作品世界に合っていれば、「厨房」や「碧玉」といった古めかしい言葉もどんどん使いますが、筆者は駆け出しのころ、古めかしい訳語にこだわるあまり「女衒」という単語を使って「それはさすがに日本的すぎる」と編集者さんに指摘されてしまったことがあります。
 もう一つ欠かせないのが、作中に働く超自然の力の働きをきちんと理解することです。そうした力は物理法則と違って、作者本人しか全体像を知りませんし、作中でこと細かに解説されているとも限りません。それでも訳者の頭の中ではできるだけ整理しておかないと、訳出の際に思わぬ矛盾が生じかねません。前述の『チャーメインと魔法の家』を訳したときは、魔法のドアの働きを何度も図に描いて確認したものです。
 このように、細かくて地味な作業を日々くり返しているわけですが、訳しながら願っていることはただ一つ、作者のイマジネーションが到達した地点の風景を、そのまま読み手にも味わってもらうことです。冒頭で述べたとおり、一口にファンタジーといっても内容はさまざまですから、どんな人にもきっと、立場や好みに合った作品が存在するに違いありません。そんな一作を見つけるお手伝いができれば、訳者冥利につきるというものです。
 

市田泉さんの訳書 

  • ソフィア・サマター〈市田泉=訳〉
    『図書館島』
    東京創元社
    本体2900円+税
  • タニス・リー〈市田泉=訳〉
    『死せる者の書』
    創元推理文庫
    本体960円+税
  • ダイアナ・ウィン・ジョーンズ〈市田泉=訳〉
    『チャーメインと魔法の家』
    徳間文庫
    本体660円+税
 
P r o f i l e

市田 泉(いちだ・いづみ)
1966年生まれ。石川県出身。英米文学翻訳家。お茶の水女子大学文教育学部卒業後、 1989年から1992年まで公務員として勤務。子育てを経て2005年より翻訳の仕事を始める。訳書に、シャーリイ・ジャクスン『ずっとお城で暮らしてる』『処刑人』、タニス・リー『死せる者の書』『狂える者の書』(以上、創元推理文庫)、ダイアナ・ウィン・ジョーンズ『チャーメインと魔法の家』(徳間文庫)、グレアム・ジョイス『人生の真実』(創元海外SF叢書)、ソフィア・サマター『図書館島』(東京創元社)など多数。

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